ださいたま 埼玉 彩の国  エッセイ 

埼玉県について新聞、本、雑誌、インターネット、TVで得た情報に基づきできるだけ現場を歩いて書くエッセー風百科事典

金子兜太先生を聞く その2 

2012年07月27日 13時50分52秒 | 文化・美術・文学・音楽




金子先生の言う「生きもの感覚」という言葉は、一見分かり易そうで分かり難い。

 花げしの ふはつくやうな 前歯哉

一茶の句の中から「生きもの感覚」の具体的な例の一つとして先生が挙げた例だ。一茶の前歯がぐらついた49歳の時の句である。

前歯が「ふはつく」とは、「ふわつく」、つまり「ぐらぐらする」という意味で、その感触が「けしの花びらのようだ」というのである。

「この洗練された感覚が美しい」と先生は指摘する。

揺らいでいる歯も、歯の後ろからちょっと押してみる舌も、芥子の花のふわふわとした感触も「生きもの」で、すべて差別なく、同じ生きものの世界として感じられている。

すべてが「生きもの」として感じられてしまう。それが「生きもの感覚」の元にあるというのである。

一茶は50過ぎには歯がなくなり、65歳で死ぬまで歯がないままだったという。

先生も若い頃、あまり歯を磨かなかったので、名医にどんどん抜かれて入れ歯になり、今はインプラントにしていると本には書いてある。

私事で申し訳ないけれど、私も歯を磨かなかったのと、戦争時のカルシウム不足の報いで、今はブリッジがほとんど。「80歳で20本の永久歯」など夢のまた夢。歯の話はよく分かる。

前回挙げた一茶の

 十ばかり屁を捨てに出る夜長かな

「人間とはいいものだなあ」と先生はいう。ふるさと秩父の父親の句会の温かい雰囲気が伝わってくる。それはいつも見慣れた光景だった。

これが、一茶の「生きもの感覚」である。

俳句は季語のためではなく、人間のためにあるのだから。

思えば、植物繊維に頼っていた日本人は、サツマイモを食べてはよく、「屁をこいた」ものだ。最近、「屁をひる」人も少ないので、

 屁をひっておかしくもなし独り者

という川柳も分かる人が少なくなったのではないかと思う。

先生の母親は104歳で天寿をまっとうされた。その母を偲んで

 うんこのようにわれを生みぬ長寿の母

というのは先生の近作である。

まさしく、「生きもの感覚」の典型としか言いようがない。そこに季語など入る余地はない。

先生の話を聞いているうちに、「兜太は一茶の生き代わりではないか」と思うようになってきた。

そういえば、二人の体格も似ているなあ。