金子先生の言う「生きもの感覚」という言葉は、一見分かり易そうで分かり難い。
花げしの ふはつくやうな 前歯哉
一茶の句の中から「生きもの感覚」の具体的な例の一つとして先生が挙げた例だ。一茶の前歯がぐらついた49歳の時の句である。
前歯が「ふはつく」とは、「ふわつく」、つまり「ぐらぐらする」という意味で、その感触が「けしの花びらのようだ」というのである。
「この洗練された感覚が美しい」と先生は指摘する。
揺らいでいる歯も、歯の後ろからちょっと押してみる舌も、芥子の花のふわふわとした感触も「生きもの」で、すべて差別なく、同じ生きものの世界として感じられている。
すべてが「生きもの」として感じられてしまう。それが「生きもの感覚」の元にあるというのである。
一茶は50過ぎには歯がなくなり、65歳で死ぬまで歯がないままだったという。
先生も若い頃、あまり歯を磨かなかったので、名医にどんどん抜かれて入れ歯になり、今はインプラントにしていると本には書いてある。
私事で申し訳ないけれど、私も歯を磨かなかったのと、戦争時のカルシウム不足の報いで、今はブリッジがほとんど。「80歳で20本の永久歯」など夢のまた夢。歯の話はよく分かる。
前回挙げた一茶の
十ばかり屁を捨てに出る夜長かな
「人間とはいいものだなあ」と先生はいう。ふるさと秩父の父親の句会の温かい雰囲気が伝わってくる。それはいつも見慣れた光景だった。
これが、一茶の「生きもの感覚」である。
俳句は季語のためではなく、人間のためにあるのだから。
思えば、植物繊維に頼っていた日本人は、サツマイモを食べてはよく、「屁をこいた」ものだ。最近、「屁をひる」人も少ないので、
屁をひっておかしくもなし独り者
という川柳も分かる人が少なくなったのではないかと思う。
先生の母親は104歳で天寿をまっとうされた。その母を偲んで
うんこのようにわれを生みぬ長寿の母
というのは先生の近作である。
まさしく、「生きもの感覚」の典型としか言いようがない。そこに季語など入る余地はない。
先生の話を聞いているうちに、「兜太は一茶の生き代わりではないか」と思うようになってきた。
そういえば、二人の体格も似ているなあ。
十ばかり屁を捨てに出る夜長かな
「人間とはいいものだなあ」と先生はいう。ふるさと秩父の父親の句会の温かい雰囲気が伝わってくる。それはいつも見慣れた光景だった。
これが、一茶の「生きもの感覚」である。
俳句は季語のためではなく、人間のためにあるのだから。
思えば、植物繊維に頼っていた日本人は、サツマイモを食べてはよく、「屁をこいた」ものだ。最近、「屁をひる」人も少ないので、
屁をひっておかしくもなし独り者
という川柳も分かる人が少なくなったのではないかと思う。
先生の母親は104歳で天寿をまっとうされた。その母を偲んで
うんこのようにわれを生みぬ長寿の母
というのは先生の近作である。
まさしく、「生きもの感覚」の典型としか言いようがない。そこに季語など入る余地はない。
先生の話を聞いているうちに、「兜太は一茶の生き代わりではないか」と思うようになってきた。
そういえば、二人の体格も似ているなあ。