「風船爆弾」という珍妙な爆弾が、第二次大戦末期、日本の陸軍によって実用化され、米大陸攻撃用に飛ばされたことを知っている人も少なくなってきた。
大陸間弾道弾ならぬ、“史上初の大陸間攻撃兵器”で、この大戦で使用された兵器の中では、到達距離は一番長かったという。
太平洋の1万㍍の高層を吹く冬季に強い偏西風(ジェット気流)に乗せて運ぶのである。直径10mに水素で膨らませた気球に15kg爆弾1個と焼夷弾2発を吊るし、茨城県五浦海岸など三か所から、製造された1万のうち9300発が放たれた。1割ほどが米西岸に到達したと推定されている。
1944年11月から45年3月まで発射(放球)され、着弾地が確認できたものは361発だったという。
高度を保つ装置はついていたものの、無誘導だから風まかせ。実害は少なく、1945年5月、オレゴン州で、ピクニックに来た民間人6人(妊婦1,子供5)が、不発弾に触れ、爆死したのが、唯一の人的戦果だった。
犠牲者6人の慰霊碑が立っているのをテレビで見たことがある。
「ふ号兵器」、「気球爆弾」とも呼ばれたこの兵器は、直径約10m、約200キログラム。外側は和紙5枚をこんにゃく糊で貼りあわせた。その作業には女子学生が動員された。直径が大きくかさばるので、東京の日劇や東宝劇場、国際劇場、国技館などが作業に使われたとある。
心臓部ともいえる高度維持装置、微妙な高度差を検知するアネロイド気圧計は、現在自衛隊大宮駐屯地(さいたま市北区日進町)となっている「陸軍造兵廠大宮製作所」で作られた。
開発・研究が進められたのは陸軍登戸研究所(神奈川県川崎市)。その敷地の半分が明治大学・生田キャンパスになっている関係で、この兵器にもかかわった関係者らによる「登戸研究所から考える戦争と平和」(芙蓉書房出版)という本もある。細かな数字はこの本による。
この和紙が小川和紙だったと知ったのは、七夕祭りと「忠七めし」のために小川町を訪ねた時だった。
「和紙のふるさと」を自認するだけあって、小川町の手すき和紙の歴史は、1400年以上前にさかのぼる。正倉院の文書にも8世紀に「武蔵紙」の寄進があったとの記録がある。
和紙は、コウゾ、ミツマタ、ガンピなどを原料とする。小川町にはコウゾが自生していて、和紙作りに欠かせない水は、槻川と兜川にふんだんに流れていた。
小川町では、コウゾは「かず」と呼ばれた。その繊維が太くて長く、強度に優れるので、この皮をむいて作る小川和紙は、強靭さで定評があった。
平安時代から隣のときがわ町の慈光寺から写経用の注文があった。江戸時代には、紙の大消費地が近距離にあるわけだから、最盛期には750軒もの紙すき家があり、一大産地となっていた。
大福帳に使うと、火事の際、井戸に投げ込んでも再び使えるほどの耐久性があった。障子紙、傘紙、提灯、合羽などの生活必需品のほか、この地域は、一大養蚕地帯で、狭山茶の産地でもあるので、蚕卵台紙や製茶用焙炉(ほいろ=製茶用の乾燥炉)紙と大量の農業用需要もあった。
この町には「ピッカリ千両」という言葉がある。紙干しによい晴天(ピッカリ)に恵まれると、天日乾燥がはかどるので、いくらでももうかるという意味だ。そういう時代があったのだ。
戦争中、紙の強靭さに目をつけた軍部が、「砲兵紙」と呼ばれた砲弾火薬包装紙に利用した。和紙の吸湿効果で砲弾や火薬を湿気から守るのである。
1943(昭和18)年、「ふ号作戦=風船爆弾作戦」が始まった時、小川和紙が使われたのは自然の成り行きだった。戦争末期には小川和紙の8割は軍需用だったという。
平和時の写経や大福帳から、戦時の砲弾火薬包装紙、爆弾気球紙と、小川和紙の用途の変遷を思うと感慨無量である。
コウゾを100%使った小川和紙の銘品は、「細川紙」と呼ばれる。細川とは、人名ではなく、紀州(和歌山県)高野山麓の細川村のこと。ここでは、武家社会で公文書用に使っていた厚いコウゾで作った奉書紙「細川奉書」を作っていた。
幕府はお膝元近くで同じものを求めていた。江戸時代には他藩への技術移転を禁じていたのに、細川村から小川に技術者を移住させ、高級紙を作らせたのである。
1978(昭和53)年、国の重要無形文化財に指定され、その技術は継承されている。今でも手に入る。
町には「埼玉伝統工芸会館」や「和紙体験学習センター」があり、和紙の手すきを体験できる。12月には「小川和紙マラソン大会」も開かれる。
しかし、洋紙や機械に押されて、手すきを続けているのは10戸ぐらいで、コウゾの栽培も県内ではほとんど行われていないという。
小川和紙に興味ある人は、竹崎里砂さんが作っている「小川和紙 ネット」にアクセスするといい。そのすべてが分かる。この記事でも大いにお世話になった。