11年7月24日(日)。小川町では七夕だという。東武東上線に乗って、この“和紙のふるさと”に、割烹旅館「二葉」に有名な「忠七めし」を食べに出かけた。
一人なので、日曜日では一番安い「忠七めし御膳(椿)」(2100円)を頼んだ。小川町は、和紙の産地なので水が豊富でいい。水がいいところにはいい酒ができる。
“関東灘”の異名があったほどで、今でも「晴雲」「帝松(みかどまつ)」「武蔵鶴」の三つの酒蔵がある。昼間ながら、ビールではなく地酒の熱燗もつけてもらった。「帝松」が出た。
ご覧のとおり、のりをまぶしたご飯に、ワサビとさらしネギと小川のユズをのせ、かつお節のだし汁のきいた秘伝のつゆをかけるお茶漬けだ。
のりは瀬戸内海産、それを焼き上げたのは、日本橋山本海苔店、米は有機栽培のこしひかり、かつお節は土佐沖でとれたカツオの血合い部分を除いた極上品だとか。
東京・深川の「深川めし」、岐阜の「さよりめし」、大阪の「かやくめし」、島根・津和野の「うずめめし」と並ぶ「日本五大名飯」に一つに数えられる。どこも行ったことはあるのに、食べたのは「深川めし」と「かやくめし」だけ。
この「忠七めし」には由緒がある。
なにしろ、江戸城無血開城の西郷隆盛・勝海舟会談のお膳立てをした無刀流の創始者、山岡鉄舟が忠七に「禅味を盛ってみよ」と注文して作らせ、「我が意を得たり」と喜んで、その名をつけたのだから。
忠七とは、小川町の創業260年になる「二葉」の八代目の館主で、140年前の話である。
この歴史的な会談にも同席、この二人と並び幕末・明治の三大巨頭と称される鉄舟は、剣の他に禅にも造詣が深く、書道も達人で多くの書を残している。剣・禅・書、三道に熟達したとされる人物だ。
書は依頼が多く、一日千枚以上も書いた日もあり、写経は死の前日まで欠かさなかったという。
「二葉館」には、鉄舟の「二葉楼」の額とともに「忠七めしの釜と讃」が残っている。
此釜を日々にたきなば福禄寿中よりわきて盡くる期はなし
明治天皇の侍従も10年務め、元老院議員にもなり、明治21(1988)年、坐禅のまま往生した。墓は自分で建立した東京・谷中の「全生庵」にある。
西郷隆盛は後年、鉄舟を「命もいらぬ、金もいらぬ、名もいらぬ、といった始末に困る人ですが、あんな始末に困る人でなくては、共に天下の大事を誓いあうわけには参りません」と評した。
なぜ、「命も金も名誉もいらぬ男」鉄舟がこの旅館に来ていたのか、いつも疑問に思っていた。600石取りの旗本だった鉄舟の父の知行地(領地)が小川町竹沢(JR八高線竹沢、東武竹沢駅がある)にあり、鉄舟は来る度に「二葉」で飲食していたからである。
こんなパンフレットを片目で読みながら食べていると、代わりのご飯のおひつはすぐ空になった。大食漢なだけで舌には自信はからきしない。私にとって由緒や歴史は見事な味になる。
鉄舟は、身長188cm,体重105kgと力士並みの堂々とした体格。無類の酒好きで、一晩4升飲んだと書かれているから、酒に合うお茶漬けを求めていたのだろう。
鉄舟のことを詳しく知るようになったのは、現役時代、清水で次郎長の生家を訪ねた時だった。
明治治維新後、幕臣だから静岡に下った時、次郎長と意気投合したと伝えられる。
次郎長は、「死者には官軍も賊軍もない」と、新政府軍と交戦して殺された咸臨丸の乗組員の浮いている遺体を、小舟を出して回収して葬った。鉄舟はこれに感謝し、次郎長と付き合うようになった。
次郎長がこれほど世に知られるようになったのは、ヤクザの親分ながら、鉄舟や咸臨丸の艦長だった榎本武揚と交際出来るようになったからと言われている。
「二葉」では19年9月、鉄舟の書を時代順に並べた常設展示をオープンした。江戸・東京に隣接している埼玉では、幕末や明治の歴史を勉強することが多い。
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