なぜ大宮が「鉄道のまち」と呼ばれるのか。
大宮駅2015年3月16日、1885(明治18)年の開業以来130周年を迎えた。金沢に向かう北陸新幹線も2日前の14日から停車を始めており、長野新幹線は北陸新幹線に統一された。これまでの東北、上越、山形、秋田の新幹線に北陸を加えて新幹線5路線が通過することになった。
16年3月26日には、新函館北斗まで開業する北海道新幹線も停車を始め、通過する新幹線は6路線になった。
京浜東北線や埼京線、湘南新宿ラインのJR在来線のほか、東武鉄道の野田線(愛称アーバンパークライン)や埼玉新都市交通「ニューシャトル」の発着駅でもある。
2015年度の新幹線を含む計12路線が通る大宮駅の1日平均の乗降客数は約70万人に近い。
今はやりの言葉で言えば、「ハブ空港」ならぬ「ハブ駅」だ。JRの駅のホーム数では東京、上野駅につぐ第3位の多さである。
旅客サービスのほかに、駅の北側には、「国鉄大宮工場」と呼ばれていた、検査・修繕用のJR東日本大宮総合車両センター(客車)、JR貨物大宮車両所(貨物)がある。
「旧国鉄大宮工場」の敷地の北に「鉄道博物館」と「大宮大成鉄道村」があり駅の南側の1927年にできた旧大宮貨物操車場が「さいたま新都心」になっている。
当初から「鉄道のまち」だったわけではない。
出遅れたのだ。大宮が「鉄道のまち」になったのは、遅れを挽回するため、私財を投げうって尽力した先人たちの努力のおかげである。
名誉市民・白井助七。
この人のことを知ったのは、通っていたさいたま市のシニア大学の総会が開かれた「市民会館おおみや」に隣接する児童公園・山丸公園の一隅に、その顕彰碑が立っているのを見つけた時だった。
西口のソニックシティ前の鐘塚公園にも胸像が立っている。
1883(明治16)年、私鉄の「日本鉄道株式会社」の手で、東京から北へ向かう鉄道が上野・熊谷間に初めて開業した時、浦和駅の次は上尾、鴻巣駅で、大宮駅はなかった。
中山道の宿場町だったのに、明治維新後衰退し、この開業当時は243戸しかなく、無視されたのだった。
高崎線が高崎まで延長され、深谷、本庄の2駅が開設されても、大宮駅はできなかった。
「これでは中山道の交通の拠点だった大宮が取り残されてしまう」。先見の明を持っていた助七は、地元の有力者たちに呼びかけ、時の県令(知事)や日本鉄道に対し、請願・陳情を繰り返した。
助七らは、停車場用地の無償提供を申し出た。
ちょうどその時、日本鉄道では、宇都宮に抜ける東北線をつくるに当たって、分岐駅をどこにするかを検討していた。候補の一つは熊谷、二つ目が大宮だった。
検討の結果、助七らの陳情もあって、宇都宮への距離が短く、鉄橋の工事費が安くつく大宮分岐が決まり、2年後の1885(明治18)年3月、大宮駅が開設された。その4か月後に東北線の大宮―宇都宮間は完成した。
こうして、「鉄道のまち大宮」の基礎が築かれた。助七らは「鉄道のまち」の父といえるだろう。日本鉄道の大宮工場の誘致でも、助七は土地を提供した。その土地を基に工場は、1894(明治27)年操業を開始した。
日本鉄道は後に国有化された。「国鉄大宮工場」では、DC51機関車も作られた。
助七は1895(明治28)年、推されて大宮町長になったが、翌年執務中55歳で没した。
鉄道博物館の場合も、さいたま市は誘致のため25億円の基金を積み上げていて、それが建設費の一部に充てられた。
「鉄道のまち大宮」の駅も工場も「てっぱく」も、住民の協力でできたのである。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます