さいたま市大宮は「鉄道のまち」と呼ばれてきた。大宮駅がJR宇都宮線と高崎線との分岐点で、京浜東北線の始終点、私鉄の東武アーバンパークライン(野田線)、埼玉新都市交通伊奈線の乗換駅と、関東でも十指に入るターミナル駅だからというだけではない。
むしろ、駅に隣接して「大宮工場」という国鉄・JRを裏から支える大きな施設があり、その工員らが近くに住んでいて、国鉄の企業城下町だったことの方が大きい。
さいたま市立博物館が2007(平成19)年に編集・発行した「鉄道の街さいたまー鉄道博物館がやってきた」によると、1928(昭和3)年には工場長以下2800人が働いていて、「鉄道工場中全国一の規模」だと、当時の大宮町が発行した「大宮」には書いてあるという。
大宮工場の前身「日本鉄道汽車課大宮工場」ができたのは1894(明治27)年なので、2014年は設立以来120周年に当たる。駅が出来たのは1885(明治18)年だから9年後のことである。
労働者は開設時には239人だったのが、最盛期の1946(昭和21)年には5千人を超えていたというから驚く。
現在の大宮区桜木町には国鉄の職員宿舎、寮、病院などがあり、一つの町をなしていた。
「大宮工場」はまさしく「鉄道のまち 大宮」のシンボルだった。
国有化に伴い、名称も次々変わり、現在の「大宮総合車両センター」になったのは、04(平成16)年のことである。
毎年5月の第4土曜日には「JRおおみや鉄道ふれあいフェア」が開かれてきた。14年はさいたま市も120周年を記念して共催に加わり、駅周辺で様々なイベントが催された。
一度、工場の中をのぞきたかったので、この日に見物に出かけると、駅から工場まで長い行列ができていた。子供連れが圧倒的に多い。約3万人の人出だったという。
入り口に大きくどっしりした蒸気機関車が展示してあった。懐かしい「D51187」である。(写真)
「型式D51」は、主に太平洋戦争中、千台以上作られた日本を代表する蒸気機関車で、「デコイチ」の愛称で親しまれた。私にとって蒸気機関車とは「デコイチ」だった。
「187」は、国鉄大宮工場で製造された31両の同型車の第1号機で、1938(昭和13)年に製造された。
私が昭和14年生まれだから、ほぼ同じ歳を生き抜いてきたのかと思うと感慨が沸く。
この日の目玉は、片道1.7kmの蒸気機関車の試乗会だった。「D51」ではなく小型軽量の「C12」型だったが、計1500人分の乗車券はすぐ売り切れ、煙をもうもうと吐いて運行する度にカメラマンが人垣を作っていた。
この「C12」は、真岡鉄道のものだが、この車両センターで手入れしているものだ。
鉄道グッズや駅弁なども売られ、鉄道ファンにとってはうれしい一日だったようだ。
「鉄道のまち」にとって忘れられないのは、日本の貨物輸送に重要な役割を果たし、新鶴見(神奈川県)、吹田(大阪府)と並び、3大操車場と呼ばれた「大宮操車場」である。1927(昭和2)年にできた。
操車場とは、行き先がばらばらな貨車を1か所に集めて列車を編成して、送り出す場所である。
1984(昭和59)年、操車場の機能を停止、敷地のほとんどは「さいたま新都心」に変わった。
「去るものは日々に疎し」。新都心に操車場があったという記憶は年々薄れてきているようだ。
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