
成身院百体観音堂 本庄市児玉
埼玉にも「さざえ堂」があるというので、14年のゴールデンウィークに本庄市児玉の成身院(じょうしんいん)百体観音堂を訪ねた。(写真)
会津で見た「さざえ堂」に建築から見て興味を魅かれていたのと、ここには1層に秩父34観音、2層に坂東33観音、3層に西国(さいごく)33観音が安置されているというので、一寺で百体を拝めるという怠け者なりの計算があった。
少しずつ歩いている秩父はともかく、坂東や西国は回るつもりがないからだ。
会津若松市の正宗(しょうそう)寺、群馬県太田市の曹源寺と百体観音堂を、「日本三大さざえ堂」と呼ぶようだ。(さざえ堂は他にもある) 仏像が安置されている回廊がさざえの殻の中を歩くような形になっていることから「さざえ」の名がついている。
平面六角形で二重らせんの斜路を持つ特異な構造の正宗寺とはいくぶん違う。曹源寺と百体観音堂は外から見ると2階なのに、内部は3層になっている。茨城県取手市の長禅寺三世堂とともに「関東系」とよばれるとか。
回廊を順序どおり進むと、本尊を三巡りして、仏を礼拝する作法としては、最もていねいな「右繞三匝(うにょうさんそう)=右(時計)回りに三巡りする」になるという。
参拝人が多くても一方通行になっていて、鉢合わせしないようになっているというから有り難い話である。
この観音堂の前に立っている説明板や堂に置かれているパンフレットにも心を奪われた。
1783(天明3)年、浅間山の大噴火で流出した溶岩と引き起こされた洪水は、吾妻川、利根川沿岸の30数か村を埋めた。焼死、溺死する者数知れず、川辺に近づくと、うめき声が聞こえ、人々はただおびえ、弔うものもなかった。1500人以上が死亡、多くの遺体が利根川を流されていったという。
この噴火は日本の火山噴火の災害としては最大の出来事とされている。
当時の成身院69世元真は、死者のため現在の坂東大橋付近に檀を築き、近くの僧とともに供養に努めた。永代にわたって供養するため百体観音堂建立を発願したものの、果たさずに死んだ。
その遺志をついで弟子の元映は、度々江戸まで出かけて募金した。百体のうち6割はその募金によって江戸で鋳造されたもので、中山道の宿場の人々の手で順送りに成身院に運ばれてきた。
観音堂と周囲が整備されたのは1795(寛政7)年。各地にある浅間山噴火犠牲者供養の建造物の中で、最も大きく荘厳なものだったという。
その後、明治になって廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)のために無住寺になり、住み着いた放浪者の失火による火災、再建、花火がもとでの本堂の焼失、観音像の半数の盗難と数多くの災難に遭いながら、近辺の信者による観音像の寄進などで現在の形になったのは1980(昭和55)年だった。
小平と呼ばれるこの地域は養蚕が盛んで、農家が裕福だったことがその背景にある。今でも屋根の上に蚕のための暖気通風用の高窓を頂く家「高窓の家」(今では養蚕はやっていない)が数軒残っているのが、その証である。
高さ20mの百体観音堂正面の鰐口(わにぐち)は、直径180cm、厚さ60cm、重さ750kgで、直径を除けば日本一の大きさという。この鰐口は観音堂が整備された1795年に鋳造されたもので、奇跡的に建立時のまま残っていて、市の有形文化財に指定されている。
建立時、同じ所に発注されていたので、同じ大きさのものが越谷市の浄山寺に残っている。
群馬県では、浅間山噴火の痕跡をいくつも見た。埼玉県で見たのはこれが初めてで、浅間山、いや富士山が火を噴いた時、埼玉はどうなるのか、考えざるを得なかった。百体観音堂から遠く浅間山が望める。
無住寺なので、百体観音堂を管理している本庄市観光農業センターの担当者の話では、「児玉33霊場」の第1番札所が成身院で、他の32箇所も浅間山噴火の犠牲者の慰霊のために建てられたのだという。
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