いい年をしていながら、十二支や干支(えと)に弱い。「子の権現(ねのごんげん)」と言われてもすぐにピンとこないのはそのためだ。
子の権現を創建したのは「子の聖(ひじり)」である。和歌山県生まれで、誕生日が「子年・子月・子日・子刻」だったから、「子の日丸」とも呼ばれていた。
832(天長9)年(平安時代)のことである。
子年(ねどし、ねずみどし)は西暦を12で割って4が余る年だから、そのとおりである。
子月(ねづき、ねのつき)は旧暦11月、子日(ねのひ)は1か月に2、3回あり、子刻(ねのこく)は23から01時、ちょうど00時を指すこともある。
子は十二支の最初だから縁起がいい。古代中国では冬至を含む月(旧暦11月)に北斗七星の取っ手の先が真下(北の方角)を指すため、十二支の最初の月にしたという。
7歳で仏門に入った子の聖が、出羽羽黒山など各地で修行の後、標高640mのこの「子の山」の山頂に、11面観音を祀り、草庵を結んだのは911(延喜11)年。
弟子の恵聖聖人が子の聖を「大権現」と崇め、「子の聖大権現社」を建立したのが1012(長和元)年である。
「子の権現」は通称で、正式には天台宗の大鱗山雲洞院天竜寺である。
初めて登山した際、山麓で鬼に襲われ、腰から下に火傷を負って苦労したことから、「足腰の病に悩める者、必ず霊験を授けん」という遺言を残した。このため火防、足腰守護の神として知られ、信仰されている。
江戸時代には飛脚や力士、明治の頃には、人力車組合、荷車組合、今では足腰の大切なスポーツ選手や中高年に人気があった。
本堂の近くに重さ2tの日本一の鉄のワラジや、大きな下駄が奉納されているのは、その信仰のシンボルである。(写真)
境内は、1万2千平方mと広大。山門前にある二本杉は、台風や落雷などで損傷してはいるが、子の聖が開山の折り、箸代わりに使った杉の枝をここに刺したところ、成長して大木になったもので、樹齢約1千年とも言われる。
山門に次ぐ黒門に立つ二体の大きな仁王像は、屋根のない「露座」で極めて珍しいという。
江戸時代末期に建てられた本坊の屋根は、茅と杉で何層にも葺かれていて、名物の一つだ。
毎年6月10日が「開山日」になっていて、二本杉にちなむ箸立ての儀が行われる。
東京スカイツリーとほぼ同じ高さなので、眺望が素晴らしく、ハイキングにも人気がある。
車でも登れるが、徒歩なら、西武新宿線の吾野駅または西吾野駅から1時間半程度。吾野駅から登り、西吾野駅へ下りてみたが、西吾野駅の方がいくぶん近い感じだった。
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