+
霜里農場の見学会は、座学と農場見学の2部に分かれている。
座学は、「切り花国家 日本」という金子さんの農業観から始まる。
日本の食糧自給率は約4割。穀物自給率は28%(OECD加盟国30か国中27番目)。小麦に至っては15%。農業に従事する人の半数は65歳を越す。
このような農業の現実の上に工業と都市が栄える日本は「切り花国家」みたいなもので、「根のない国」は確実に枯れるーーという見方である。
金子さんが強調する有機農業の基本は①土づくり②種苗の自家採種③生産者と消費者の顔の見える提携――である。
落ち葉が土中のミミズなどの小動物や微生物で分解され、木々が育つようになる腐葉土が、厚さ1cmになるには100年かかるという。これを10~20年に早めてやるのが土づくりだ。
土に落ち葉や雑草、麦わら・稲わら、おがくず、生ごみ・野菜くず、牛や鶏などの家畜の糞などを混ぜ合わせて作る堆肥をすきこんでいくのだから時間も手間もかかる。「土づくりには10年かかる」と金子さんは力説する。生やさしい仕事ではない。
「ホウレンソウがうまくできるようになるといい土ができた証拠」という。
有機農業を始めたからといって翌年から通用するものではないのである。有機農業は工場で栽培される水耕栽培とは、まったく違う世界である。
腐葉土を作る過程で、農作物の害虫の天敵や病原菌を食べてくれる土壌生物が土に住み着くようになる。
農薬でアブラムシやアオムシなどの害虫は一時的に減らせても、撲滅するのは不可能だ。それをナナホシテントウムシ、クモ類、アシナガバチといった自然に集まってくる天敵が退治し、ミミズやトビムシといった土壌生物がハクサイ、キュウリ、ホウレンソウ、大根などにつく病原菌を食べてくれるのだ。
金子さんが水田へのヘリコプターによる農薬の空中散布に反対したのは、害虫が抵抗性を持つようになるほか、害虫の天敵のいる環境を守っていくためだった。
土に次いで大切なのは、種である。現在、日本の農作物の種は、ほとんど外国に依存し、一代限りのものが多い。
日本には昔から「種は五里四方でとれ」という言葉が残っている。その地にぴったりの害虫や病原菌にも強く、味も良い種があったはずなのだ。
下里地域には昔、「青山在来」という種の大豆が栽培されていた。収量が少ないので忘れられていた。晩生種で開花期が遅いため害虫の被害を減らせるうえ、糖度が1.5倍高く、味もいい、それに気候変動にも強いという利点があった。
これを復活してみたところ、隣町の豆腐店「とうふ工房わたなべ」が注目、全量買い取りに踏み切り、有機農業の最大の問題である販路を切り開けた。
種の問題を重視する金子さんらは1982年以来、関東の有機農業者を中心に「有機農業の種苗交換会」を開き、有機栽培に適した種苗の発見と交換に務めている。
「自分で作った堆肥で出来た土に、その地にぴったりの種を植える」。そのようにして出来た農作物は、商品というより自分の子供のように思われてくる。害虫も病原菌の少ないので、化学肥料・農薬漬けのものとは、当然味も違ってきて、自慢できるほどになる。
こうなれば自分で作って自分で食べる自給農業から消費者との接点が生まれてくる。
金子さんはまず、町の10世帯を相手にして配達つきの「会費制」の有機農業システムを始めた。ところが、いろいろの考えの人がいたのと、「農作物は本来は商品ではない」という考えから、消費者側が金額を決める「お礼制」に切り替えた。今では会員は地元や東京など40世帯になった。
有機農家と消費者が直接結ばれるのだから、流通の経費が省かれて、農家にとっては時間と手間をかけた分の収入が手にはいり、再生産が可能になるし、消費者にとってはおいしく安心できる農産物が割安になる。文字どおりの「小利大安」だ。
1980年代米国で、有機農業を支援する人々が農家と提携する地域支援型農業(CSA=Community Supported Agriculture)が生まれた。地域社会による有機農業支援策である。金子さんらが始めた「生産者と消費者の提携」の米国式の呼び名である。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます