学生時代に桑原武夫の「俳句第二芸術論」の洗礼を受けたおかげで、今どきの季節に合わない季語などにこだわる俳句には素直な気持ちで接しきれない。
最近劣化がとみに目立つ川柳に比べると、まだましかと、せっせと「朝日俳壇」などを読むようになったのは歳のせいだろう。
俳句全体ではなく、芭蕉、蕪村、一茶の御三家となると、学生時代から解説書をほとんど読んだので、今でも別格という感じだ。
歩く時間も金もなかったので、当時はやりの国鉄の割安周遊券で芭蕉の足跡をたどってみようとしたこともある。草加松原に何度も来たのは、そのためだ。
芭蕉も歩いた、松並木の遊歩道「草加松原遊歩道」は、いつ来ても素晴らしい。日本の道百選にも認定されている。大流行した松枯れ病にもめげず、これだけの松の木を守り、育ててきたのには感心する。
綾瀬川沿いのこの道は、旧日光街道で、現在は足立越谷線と呼ばれる県道だ。東京都の足立区と、「草加、越谷、千住の先」と呼ばれた草加の北隣越谷を結ぶ道である。
この松並木は、1630(寛永7)年に綾瀬川改修の際、植えられたという説もある。千住・越谷間の宿として草加宿ができた年だ。資料の上では1792(寛政4)年に1230本の苗木を植えた記録があるという。
芭蕉が「奥の細道」の旅に出たのは、1689(元禄2)年。46歳の時だった。
東京スカイツリーの高さに合わせて植え足した634本でもこれだけなのだから、その倍近くの松並木が続いていた頃はと、想像するだけで楽しい。当時の画家や文芸家が多くの作品を残しているのもうなずける。年代から見ると、芭蕉が見たのはその松並木ではない。
松並木は一時60数本まで減った。それを634本まで回復させたのは市と住民の力による。
東武伊勢崎線は、北千住乗換えで銀座への通勤に使ったことがあるので、浅草、千住や草加、越谷には土地勘がある。
いつも不思議に思っていたのは、千住から草加はそれほど離れていないのになぜ日光街道第二の宿、草加宿に芭蕉らが泊まったのか、ということだった。
いろいろ読んで調べてみると、芭蕉は、出発した3月27日(弥生も末の七日=太陽暦では5月16日)、早起きして(明けぼの)、弟子の曾良、見送り人とともに芭蕉庵から舟に乗り、約10km離れた千住で降りて、前途3千里(12000km)の旅を始めた。
実際には600里(2400km)、150日間の旅だったようだ。千住で読んだのが
行く春や鳥啼(な)き魚の目は泪(なみだ)
である。この句は「矢立(やたて)の初(はじめ)」とある。隅田川にかかる千住大橋にちかい大橋公園に「矢立初めの碑」が立っている。
松原遊歩道にある木橋「矢立橋」はこれにちなむ。もう一つの木橋「百代橋」(写真)は、もちろん「奥の細道」の書き出しにある「月日は百代の過客にして」による。
読み進むと、「その日やうやう草加という宿にたどり着きにけり」とあるから、てっきり草加に泊まったのかと思っていた。
千住宿から草加までは2里2町(約8.2km)しかない。今の脚でも徒歩で2時間の距離で、「やうやう(ようよう)」というほどの距離ではない。
芭蕉の日程を記した「曾良日記」によれば、この夜泊まったのは、越谷を越した春日部(当時粕壁)。どこに泊まったかは書いてない。日光街道沿いの東陽寺に山門脇に「伝芭蕉宿泊の寺」の石柱があり、境内に「廿七日夜カスカベニ泊ル 江戸ヨリ九里余」と刻んだ碑がある。
春日部の別の寺(小渕山観音院)にも芭蕉宿泊の言い伝えがあるという。草加には「着いた」とあっても、「泊まった」とは書いてないので、春日部泊だったのだろう。
芭蕉と草加についてもう一つ興味があるのは、芭蕉は今のような草加せんべいを食べたのだろうかということだ。
草加市のホームページを見ても、「醤油が普及し始めた幕末から、焼いたせんべいに醤油が塗られるようになった」とあるから、残念ながら芭蕉は、今のような草加せんべいを食べていない ようだ。
泊まっていなくても、せんべいを食べていなくても、芭蕉がらみの草加の松並木は、一度は歩いてみたいところだ。
草加駅前の観光協会でもらえる「草加市案内図や『草加まち歩きマップ』、それに草加市のホームページは出色で、面白い。この稿でもお世話になった。
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