関東大震災
南海トラフが先か、関東大震災の再来が先か、地震予知が科学的に難しい今、誰にも分からない。
東京の隣の埼玉県にとって、関東大震災の再来はひとごとではない。
1923(大正12)年9月1日午前11時58分、相模湾北西沖80kmを震源とするマグニチュード7.9と推定される大激震が関東地方を襲った。その時、埼玉県下で何が起きたのか。
県下(熊谷)でも震度6を記録し、被害は、神奈川・東京・千葉・静岡に次ぐ5番目だった。いくつかの歴史の本から再現してみよう。
被害は、東部の古利根川、元荒川の沖積層の地盤が軟弱な地域に集中した。特に川口、粕壁(春日部)、幸手町が三大被災地とされた。
最も被害が大きかったのは川口町で、鋳物工場316が全半壊、死者10を含む死傷者42人、住家862が全半壊した。鋳物工場の工員約3000人が一時失職した。
粕壁町では満足な家屋がほとんど残っていない状態だった。幸手町では死者10を含む50人が死傷、住家330余戸が全半壊した。
国鉄大宮工場では、作業場の倒壊で煙突が崩れ、死者24人を出した。
全県では、死者217、負傷者517人、住居の全壊4713、半壊3349戸が出た。(大正震災誌)
赤羽・川口間の荒川鉄橋の橋脚が傾き、3日まで不通になり、被災者救援や復興資材の運搬に支障を来たした。
1日から3日までの間に震度1-5の余震が109回、9月中に震度4以上が8回起きた。
東京から空腹と疲労、負傷を抱えた避難民が続々流入した。県は16日まで救護所を設けたが、救護した人は約30万人、各市町村でも約18-24万人に達した。県外でも、日暮里、滝野川に救護所を設け、医療活動に当たった。
この大震災で朝鮮人が襲ってくるというデマが飛び、各地に住民たちの自警団が結成された。警察では保護のため、県内や東京から非難してきた朝鮮人をトラックに乗せ、県外の安全な地域に移そうとした。
本庄では警察署構内で群集がこれを襲い、ほとんどの86人(巡査と新聞報道)を撲殺するという、県内で最大の犠牲者を出した事件が発生した。県北の熊谷や寄居、神保原でも殺害事件が起こり、被害者総数は確認されただけで193、未確認を入れると240人に上る(県史、通史編6)。
いずれも震災の被害が軽かった県北地域で起きているのが気にかかる。
この震災で虐殺されて朝鮮人は、、3千数百人に上った。
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