渋沢栄一 青い目のお人形
♪青い目をした お人形は
アメリカ生まれの セルロイド・・・
1921(大正10)年にできた有名な童謡である。野口雨情作詞、本居長世作曲の当時の最高のコンビによるもので、小さい頃によく聞き、歌ったものだ。
栄一は、計4回渡米した。この訪問で、東京商工会議所会頭を務めていた栄一は、ルーズベルト、タフト、ウィルソン大統領と面会するなど多くの知己を得た。
身長150cm,小柄で太っていた栄一は、スピーチも機知に富んでいた。「グランド・オールド・マン」の愛称で呼ばれ、親しまれた。第4回目の訪問の際は、すでに82歳になっていた。
当時、米国では西岸で日本人移民排斥の動きがしだいに高まっていた。栄一の願いもむなしく、1924(大正13)年、排日移民法が成立した。
栄一の米国人の知己の中に、シドニー・エル・ギューリック博士がいた。宣教師で日本に20年も滞在していた親日家で、ニューヨークの日米関係委員会の幹事を務めていた。博士は、日米親善のため、「ひな祭り」の日に米国の児童から日本の児童へ人形を贈る計画をたてた。
栄一は、日本側の受け入れ組織、日本国際児童親善協会の会長に推され、1927(昭和2)年3月3日、東京青山の青年館で贈呈式が行われた。
出席した栄一はすでに88歳になっていた。送られた人形を抱く栄一の写真が残っている。その総数は1万2千体。日本全国の小学校や幼稚園に贈られた。答礼として、日本側からも各州に一体ずつ日本人形58体が送られた。
米国から送られたのは、歌のようなセルロイドではなく、素焼きのものが多かったという。当時のNHKは、親善人形を受け入れに合わせ、「人形を迎える歌」を創り、全国に放送したが、あまり人気がでず、数年前にできていた「青い目をしたお人形」の方が歌い継がれて、この二つが混同されたのだった。
栄一は中国とも共存共栄を唱え、三回訪中、蒋介石とも親しかった。国際連盟協会長も務め、このような功績でノーベル平和賞の候補に挙がったこともあった。
戦時中、送られてきた人形はどのような運命をたどったのか。敵国の人形だというので、文部省は「壊すなり、焼くなり、海へ捨てたりする」ことを勧めた。焚刑に処せられたり、竹槍で突かれたりと無残に処分される受難の憂き目にあった。
心ある人が隠して、戦争を生き延びてこれまで見つかっているのは300余体。米国に贈られた人形は44体が残っているという。
参考文献:「埼玉の先人 渋沢栄一」 韮崎一三郎著 さきたま出版会など
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