カスリーン台風
荒川と利根川と二つの大河を持つ「川の県」埼玉県にとって、川の恵みは計り知れない。だが、ひとたび台風や豪雨に見舞われると、「母なる川」は様相を一変、文字通りの「荒れる川」に豹変する。
利根川沿いの住民は、土盛りした避難用の「水塚」を作り、食料を備蓄、最悪に備えていた。県東部の15市町村に2014年にも千余が残っていた。馬や家畜も避難したという。
最も恐いのは、この二つの川の堤防が同時に決壊することである。・
その悪夢が現実になったのが、第二次世界大戦の敗戦間もない1947(昭和22)年9月に起きたカスリーン台風のもたらした豪雨禍だった。
2017年はその70周年に当たる。
埼玉県は、死者の数こそ101人と、関東、東北を含めた被害地域全体の1930人に比べ少ないものの、利根川と荒川を初め中小河川の堤防が83か所で決壊、当時の県内316市町村のうち、7割以上が被害を受け、約35万人が被災、家屋の被害は流出396、全壊725戸に上った。大正、昭和を通じて最大の水害だった。(県史、通史編7)
「明治43年の大洪水」(1910年)と記憶される荒川、利根川の洪水では、県内の平野部全域が浸水、堤防決壊945か所、死者・行方不明者241人、流出家屋998、全壊家屋610に上ったとある(利根川百年史など)。
江戸時代では、「寛保2年の洪水・高潮」(1742年)があり、利根川や荒川などの上流域で発生した大洪水が江戸下町を直撃、3900人以上、春日部周辺で9千人超の溺死者が出るなど、約2万人の犠牲者が出たという推定もある。
長瀞町の長瀞第二小学校裏の崖には、岩肌に「水」と刻んだ「寛保洪水位磨崖標」(県指定史跡)が残っている。現在の平水面から20mの高さで、洪水の水位の記録では日本一高いと言われている。
カスリーン台風は、利根川流域の東京の下町で被害が大きかった。しかし、堤防が破れたのは荒川が先だった。
カスリーン台風は典型的な「雨台風」だった。強風による被害は余り出ていない。日本に接近した時には勢いは衰えていて、関東地方の太平洋岸をかすめただけ。
しかし、停滞していた前線に台風が南からの湿った空気を供給、前線が活発化して、1947年9月14日から15日にかけて県内などに記録的な大雨を降らせた。
13日からの雨は15日夜半までに秩父市では、611mm(年間降水量の45%)に達した。明治34年の洪水時を上回る記録的な豪雨で、荒川は警戒水位を大きく突破していた。15日午後8時過ぎ、熊谷市久下新田地先で左岸の堤防2か所が100mにわたって決壊した。
16日午前0時20分、北埼玉郡東村新川通(現加須市大利根町)の利根川の堤防が水防団の必死の土のう積み作業のかいなく、約350mにわたって決壊した。
この洪水で利根川沿いの栗橋の最高水位は9.17mで、明治43年の水位より約3m高かった。
新川通には対岸との渡し船の乗り場があり、堤防のかさ上げも行われておらず、「かみそり堤防」のあだ名があった。
かみそりのように薄く、切れやすいという隠語であった。その上、戦時中の乱伐で山は裸同然、地面に保水能力はほとんど残っていなかった。轟音をたてて雨は山を崩し、流れ落ちた。
これも含め、支川も合わせて24か所で決壊、関東1都6県の死者は1100人に上った(国土交通省利根川上流河川事務所)。
利根川右岸(南側)堤防の決壊は、埼玉県の東部平野の低地が濁流に飲み込まれ、下流の東京も水没することを意味する。「利根川右岸を死守すること」が江戸時代から利根川治水の根幹だった。
濁流は、古利根川筋を南下、春日部、吉川を水浸しにし、18日の午後には東京の江東地区に到達、下町に壊滅的な打撃を与えた。
新川通堤防決壊による洪水は、75kmの地域を108時間で東京湾に到達したという。
二つの大河のほか、渡良瀬川、入間川、都幾川などの中小河川も氾濫した。
建設省(現国土交通省)の試算では、カスリーン台風の被害総額は国家予算のざっと5分の1に当たるとされる。もし現在、カスリー台風級の台風で利根川が同じ場所で決壊したら、国の中央防災会議は、加須市、春日部市、三郷市、2日後に到達する東京都足立区まで約230万人が住む530平方kmが浸水すると公表している。
この大水害は、戦後の政府の治水対策の原点になった。群馬県の利根川上流に治水と利水を兼ねたダムが相次いで建設され、護岸も強固になったので、この台風後利根川の堤防の決壊は起きていない。
国土交通省利根川上流河川事務所では、カスリーン台風の被害を後世に伝えようと9月16日を「治水の日」と定め、毎年慰霊・継承の式典を開いている。
現場には地元でカスリーン公園が作られ、「決潰口跡」や「台風の記念碑」(写真)が立っている。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます