野火止用水 松平信綱
江戸初期の1655(承応4)年に開削された野火止用水は、「伊豆殿堀」とも呼ばれる。当時、幕府の老中で川越城主だった松平伊豆守信綱が造ったからである。今でも、平林寺裏の小さな橋に「伊豆殿橋」の名が残る。
私の乏しい日本史の知識だと、確か「守」とは地方の長官。川越藩主で伊豆半島を支配しているわけではないのに、なぜ「伊豆守」を名乗るのかかねがね不思議に思っていた。
調べてみると、江戸時代には、武家の官位は単なる称号に過ぎなかった。名判官大岡越前守忠相が越前の領主だったわけではないのと同じである。伊豆守の名は、老中職などを務める人に多かったという。信綱は、老中も務めていたので納得した。
信綱は“知恵伊豆”の呼び名があるほどの知恵者だった。9歳で後の三代将軍家光の小姓になった。1637年、島原の乱を鎮圧した功で、行田の忍城から川越城に転封。川越城を拡張・整備すると同時に、川越と江戸を結ぶ新河岸川を整備、舟運を始めた。さらに荒川の治水、川越街道の整備など現在の川越の発展の基礎を築いたのはこの人だ。
信綱は、江戸の水不足を解消するため多摩川から東京・四谷まで43kmの玉川上水を総奉行として完成させた(1653年)。その業績に対し、禄を増やす話を辞退、その代わりに玉川上水の水の3割を自分の領地だった野火止台地に分水する許可を得て、1655年に開削したのが上水から新河岸川まで約25kmの野火止用水だった。
玉川上水の工事でも起用した川越藩士・安松金右衛門に命じ、着工から40日で完成した。玉川上水から新河岸川まで勾配が緩いので、土地が低い所では、堤を築き、堤の上に水路を造った。総工費3千両とされる(玉川上水は5千両)。
この台地は武蔵野台地の一環で、赤土と呼ばれる関東ローム層から成る。水の浸透性が高く、「水喰土(みずくらいど)」と呼ばれたほどで、水の便が悪く、焼畑農業が中心だった。野火が広がり過ぎるのを防ぐため、堤防や塚のようなものが築かれたのが野火止だ。平林寺の中には野火止塚が残る。
水が無いので、住民は「カヤ湯」とか「芝湯」といって、刈り取ったカヤの上に寝転がったり、手足をこすりつけて風呂代わりにしたと伝えられる。
そんな所に、飲み水や生活用水、田の水にも使える水が野火止用水で届いたのだから、「伊豆殿堀」と農民たちが感謝したのは当然だった。
のちに新河岸川に「いろは48の掛樋(かけひ)」がつくられ、用水の水を対岸に送り、宗岡村(現志木市)の水田を潤した。
松平家の菩提寺の平林寺は岩槻にあった。1663年、信綱の遺志でこれを野火止に移すと、平林寺堀ができ、引水した。信綱の墓は平林寺にある。
平林寺や「野火止緑道」がある新座市は、かつての新羅郡が新座郡に改名された名残である。その昔の名「新羅」は朝鮮半島の「しらぎ」から来た人たちが住んでいたためで、最新技術を持っていて、芸術的センスも優れていた。
758年、朝廷は帰化した新羅の僧32、尼2、男19、女21人を武蔵国に移したのが新羅郡の始まりという。それ以前にも2回、新羅人が移されている。
新座郡に改名されてから「にいくら」と呼ばれた。新座、和光、朝霞、志木市一帯が新座郡だった。
716年に高麗からの帰化人を集めて、日高市近辺に置かれた高麗郡と並んで、武蔵国と朝鮮半島は深い関係にあったことが分かる。2016年は高麗郡建都1300年で記念行事が着々と進められている。
伊豆殿堀沿いの遊歩道を、こんな歴史を思い浮かべながら歩くのも楽しい。今度は平林寺裏だけではなく、25km全部を歩いてみよう。
江戸初期の1655(承応4)年に開削された野火止用水は、「伊豆殿堀」とも呼ばれる。当時、幕府の老中で川越城主だった松平伊豆守信綱が造ったからである。今でも、平林寺裏の小さな橋に「伊豆殿橋」の名が残る。
私の乏しい日本史の知識だと、確か「守」とは地方の長官。川越藩主で伊豆半島を支配しているわけではないのに、なぜ「伊豆守」を名乗るのかかねがね不思議に思っていた。
調べてみると、江戸時代には、武家の官位は単なる称号に過ぎなかった。名判官大岡越前守忠相が越前の領主だったわけではないのと同じである。伊豆守の名は、老中職などを務める人に多かったという。信綱は、老中も務めていたので納得した。
信綱は“知恵伊豆”の呼び名があるほどの知恵者だった。9歳で後の三代将軍家光の小姓になった。1637年、島原の乱を鎮圧した功で、行田の忍城から川越城に転封。川越城を拡張・整備すると同時に、川越と江戸を結ぶ新河岸川を整備、舟運を始めた。さらに荒川の治水、川越街道の整備など現在の川越の発展の基礎を築いたのはこの人だ。
信綱は、江戸の水不足を解消するため多摩川から東京・四谷まで43kmの玉川上水を総奉行として完成させた(1653年)。その業績に対し、禄を増やす話を辞退、その代わりに玉川上水の水の3割を自分の領地だった野火止台地に分水する許可を得て、1655年に開削したのが上水から新河岸川まで約25kmの野火止用水だった。
玉川上水の工事でも起用した川越藩士・安松金右衛門に命じ、着工から40日で完成した。玉川上水から新河岸川まで勾配が緩いので、土地が低い所では、堤を築き、堤の上に水路を造った。総工費3千両とされる(玉川上水は5千両)。
この台地は武蔵野台地の一環で、赤土と呼ばれる関東ローム層から成る。水の浸透性が高く、「水喰土(みずくらいど)」と呼ばれたほどで、水の便が悪く、焼畑農業が中心だった。野火が広がり過ぎるのを防ぐため、堤防や塚のようなものが築かれたのが野火止だ。平林寺の中には野火止塚が残る。
水が無いので、住民は「カヤ湯」とか「芝湯」といって、刈り取ったカヤの上に寝転がったり、手足をこすりつけて風呂代わりにしたと伝えられる。
そんな所に、飲み水や生活用水、田の水にも使える水が野火止用水で届いたのだから、「伊豆殿堀」と農民たちが感謝したのは当然だった。
のちに新河岸川に「いろは48の掛樋(かけひ)」がつくられ、用水の水を対岸に送り、宗岡村(現志木市)の水田を潤した。
松平家の菩提寺の平林寺は岩槻にあった。1663年、信綱の遺志でこれを野火止に移すと、平林寺堀ができ、引水した。信綱の墓は平林寺にある。
平林寺や「野火止緑道」がある新座市は、かつての新羅郡が新座郡に改名された名残である。その昔の名「新羅」は朝鮮半島の「しらぎ」から来た人たちが住んでいたためで、最新技術を持っていて、芸術的センスも優れていた。
758年、朝廷は帰化した新羅の僧32、尼2、男19、女21人を武蔵国に移したのが新羅郡の始まりという。それ以前にも2回、新羅人が移されている。
新座郡に改名されてから「にいくら」と呼ばれた。新座、和光、朝霞、志木市一帯が新座郡だった。
716年に高麗からの帰化人を集めて、日高市近辺に置かれた高麗郡と並んで、武蔵国と朝鮮半島は深い関係にあったことが分かる。2016年は高麗郡建都1300年で記念行事が着々と進められている。
伊豆殿堀沿いの遊歩道を、こんな歴史を思い浮かべながら歩くのも楽しい。今度は平林寺裏だけではなく、25km全部を歩いてみよう。
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