金沢市立中村記念美術館 館蔵名品百選に手鑑(後鳥羽院宸記他)を見に行く。
後鳥羽院の宸筆の新古今和歌集 水無瀬切は、「前大僧正慈円」くらいしか読めなかった。この手鑑は4年ぶりの公開ということ。3年前に問い合わせしたところ、つい最近公開したので、しばらくは無いとのことだった。3年間待ってやっと見ることが出来た。新古今和歌集を学ぶものとして、何時までも見ていたい衝動にかられた。
列品解説を脇で聞いていると、加賀藩3代藩主前田利常の時に蒐集編纂が始まったらしいが、本来は天智天皇からだが、色紙の順番を変えているとのこと。
最初は八條院(子内親王 鳥羽院皇女 平安末期。鳥羽院の所領の大半を所有した。)からだった。
伏見院の古今和歌集巻十八 雑歌下の色紙は、通常は上が青、下が紫の雲状となるが、何故か上下とも青なので、つい聞いてしまったが不明だとのこと。
注:○は小生が読めなかったところ。
伏見院
山さとはものわひしき
ことこそあれよのうきより
はすみよかりけり
これたかのみこ
しらくものたえすたなひく
みねにたにすめはすみぬる
よにこそありけれ
ふるのいまみち
しりにけ○きゝてもいと
へよのなかはなみのさは
きにかせそしくめ○
すせい
いつこにかよをはいとはむ
こゝろこそのにも山にも
○よふへらなれ
よみひとしらす
定家筆(読みにくい)の惠慶集 下を見ながら狩野探幽筆三幅対の騎乗の掛け軸の説明を聞いていると、新古今の歌が読まれたのでつい聞き入ると後の1福は和歌が不明とのこと。そこで探し出すこととした。
恵慶(えぎょう)は、平安中期の歌人。安法法師と親しく、彼の河原の院での詠などがある。
八重葎茂れる宿の寂しきに人こそ見えね秋は来にけり 拾遺集
の百人一首の和歌で有名。
惠慶集 下
河原院にて、しほかま、うきしまと
いふ事を人々よむに
わたのはらしほみつほとのうきしまを
さためなき世にたとへてそ見る
しほかま
あまもなくうらもさひしきしほかまの
人の心をやくはかり也
ある人の家にむめのやつ○
さしいりていみしくちるをみて
ふりにふるやとにもあるか○梅花
狩野探幽は、1602年-1674年の江戸時代を代表する画家。和歌はその図の元になったものと推察されるもの。新古今和歌集 佐佐木信綱校注 岩波文庫による。
佐野渡図(馬に乗った者が袖肘して雪を避けている)
671 第六 冬歌
百首歌奉りし時 藤原定家朝臣
駒とめて袖うち拂ふかげもなし佐野のわたりの雪のゆふぐれ
本歌 万葉集 巻第三 長奧麻呂
苦しくも降り来る雨か三輪の崎狭野の渡りに家もあらなくに
井出玉川図(騎乗しながら馬が水を飲む先に山吹が咲いている)
159 第二 春歌下
百首歌奉りし時 皇太后宮大夫俊成
駒とめてなほ水かはむ山吹のはなの露そふ井出の玉川
本歌
古今和歌集 巻第二十 かむあそひの歌
ささのくまひのくま河にこまとめてしはし水かへかけをたに見む
定家卿郭公図(騎乗者がほととぎすの声を聞いて振り返る)
推計
新古今の定家の歌に、ほととぎすと駒を詠ったものはない。駒かほととぎすの歌は、前述の「駒止めて」と以下の二首のみ。
第三 夏歌 さみだれの月はつれなきみ山よりひとりも出づる郭公かな
第十七 雜歌中 嵯峨の山千世にふる道あととめてまた露わくる望月の駒
藤原定家歌集のほととぎすの歌は、拾遺愚草(68首)及び拾遺愚草員外(13首)あるが、駒もあるものはない。
そこで、その他の歌人で ほととぎすと駒の歌を探すと、為忠家後度百首にまさに絵のとおり、「馬上郭公」という題で、
啼く声は檜前川にあらねども駒止めて聞く郭公かな 藤原為業(寂念)
打ち渡す駒のとどろにほととぎすさやにも聞かず瀬田の中橋 葉室顕広(藤原俊成)
駒止めて行きぞ煩ふほとときす鳴きつる方を聞きも分かねば 藤原為経(寂超)
同じくは行く方に啼け郭公返せば駒の脚もつかれを 源頼政
などあり、まさに寂超の歌を探幽が書いたと言っても誰も疑わないだろう。
ささのくまひのくま河にこまとめてしはし水かへかけをたに見む 古今和歌集 巻第二十 かむあそひの歌
鳴なきわたる声移りせばほととぎす桧隈川に駒止めてまし (源顕国)
などの古歌もある。
更に古い万葉集には、
巻第七 1109 詠河
さ桧の隈桧隈川の瀬を早み君が手取らば言寄せむかも
佐桧乃熊 桧隅川之 瀬乎早 君之手取者 将縁言毳
巻第十二 3097 寄物陳思
さ桧隈桧隈川に馬留め馬に水飼へ我れ外に見む
左桧隈河尓 駐馬 馬尓水令飲 吾外将見
があり、檜前川(ひのくまがわ)のと駒止めるの関連が見出だされる。
檜前川は、大和国高市郡檜前郷(奈良県高市郡明日香村檜前)の東部を流れる小川で、高取山中から流れ、越の東で高取川と合流する。
久保田淳博士らによると、「万葉集3111の歌「さ桧隈桧隈川に馬留め馬に水飼へ我れ外に見む」の影響が強い。もっとも、古い頃から「馬」(こま)と訓じていたので王朝和歌では「駒」となっていることから、駒止め、影、水飲ふ、見るなどと訓む。新しくは「郭公、夕霧、霜、雪、桜などとも詠じる。万葉用法を外すことはない。」としている。
また、「源氏物語葵の巻で、斎院御禊の行列に騎馬で参加する源氏をお忍びで見に来た六条御息所は、葵の上との車争いに敗れ、物陰から覗き見ることを強いられるが、源氏は「笹の隈にだにあらねばにや、つれなく過ぎ給ふ」ばかりで御息所の屈辱と苦悩にさいなまれ、生き霊事件の伏線となる。巧妙な引き歌である。」としている。
定家の歌には檜前川は、
駒止めしひのくまかはの水清み夜渡る月の影のみぞ見る 千五百番歌合
如何にせむひのくま川のほとときすだだ一声の影も止まらず
の二首がある。
「如何にせむ」は、ほととぎすが主題である。つまり、万葉集、古今集の本歌取りしていたため、図の作者は駒止めての意味が含まれていると考えていた可能性がある。藤原定家は、若い頃盛んに源氏物語をモチーフにして作歌していることからもいえる。また、駒止めて俊成の歌の本歌も同じ歌である。
これは、閑居百首にあり、文治三年冬(1187~1188年)に藤原家隆とともに詠んだ百首のうちの一つで、定家26歳の作である。
閑居百首 文治三年冬與越中侍從之詠
夏十五首
如何にせむひのくま川のほとときすだだ一声の影も止まらず
となる。
前二首は、新古今にも撰歌されたほど有名であるが、「いかにせむ」はとてもマイナーな歌である。しかも駒と呼んでいないのに駒の図を示す。
これを茶席の主人が、客に図でなぞなぞを出し、客に答えを考えて貰うという風流な遊びに利用したのではないだろうか。ヒントは、佐野の渡りも井出の玉川も檜前川も大和の歌枕となっており、ともに本歌には万葉集となっている。(拙ブログ 詩歌と気象 南紀の雪1及び南紀の雪2参照)。
井出玉川の歌の本歌はなんと「さ桧隈桧隈川に」である。これもヒントなんであろう。
また、題も佐野渡図も井出玉川図も大和の地名だが、ほととぎすだけ、定家卿郭公図と作者(これもヒント)、歌題となっている。
飾った掛け軸の風流な謎解きを客にさせ、座を楽しむという趣向とみる。
ただし、これだけ凝ったもので、とてつもなくマイナーな歌を知っている者は稀と判断され、解けぬままだったのではないだろうか?というのが、この説の弱いところ。10万首は覚えていないとこの歌に辿り着けない。
参考
新編 国歌大観 第4巻 私歌集編 2 定数歌編 歌集 「新編 国歌大観」編集委員会 編 角川書店
藤原定家全歌集 上 藤原 定家 著, 久保田 淳 訳注 河出書房新社
日本うたことば表現辞典 13 歌枕編 大岡 信 監修, 日本うたことば表現辞典刊行会 編集 遊子館
和歌の歌枕・地名大辞典 吉原 栄徳 著 おうふう
歌ことば歌枕大辞典 久保田 淳, 馬場 あき子 編 角川書店