吾妻鏡第三 元暦元年九月
十四日庚子。河越太郎重頼息女上洛。爲相嫁源廷尉也。是依武衛仰兼日令約諾云々。重頼家子二人、郞從三十餘輩從之首途云々。
吾妻鏡第九 文治五年閏四月
卅日己未。今日、於陸奥國、泰衡襲源豫州。是且任 勅定、且依二品仰也。豫州在民部少輔基成朝臣衣河館。泰衡從兵數百騎、馳至其所合戰。豫州家人等雖相防、悉以敗績。豫州入持佛堂。先害妻(廿二歳)、子(女子四歳)次自殺云々。
前伊豫守從五位下源朝臣義經(改義行、又義顯。年卅一)
左馬頭義朝々臣六男。母九條院雑仕常磐。壽永三年八月六日任左衛門尉、蒙使。 宣旨九月十八日敍留。十月十一日拝賀。(六位尉時不申畏)則聽院内昇殿。廿五日供奉大嘗會御禊行幸。元暦元年八月廿六日賜平氏追討使官苻。二年四月廿五日賢所自西海還宮。入御朝所間供奉。廿七日補 院御廐司。八月十四任伊与守。(使如元)文治元年十一月十八日解官。
常楽寺(川越市上戸194)
郷御前(さとごぜん、仁安3年〈1168年〉 - 文治5年閏4月30日〈1189年6月15日〉)は、平安時代末期、鎌倉時代初期の女性。武蔵国の豪族、河越重頼の娘。母は源頼朝の乳母である比企尼の次女(河越尼)。源義経の室(正室)。頼朝の命により義経に嫁ぎ、頼朝と義経が対立したのちも義経の逃避行に従い、最期を共にした女性とされる。
本名は不明だが伝承で郷御前と呼ばれているので、この項目では郷御前として述べる。 故郷である河越(川越市)では、京へ嫁いだ姫である事から京姫(きょうひめ)と呼ばれており、平泉では貴人の妻の敬称である北の方(きたのかた)と呼ばれている。
国指定史跡河越城跡
河越 重頼は、平安時代末期の武蔵国入間郡河越館の武将。新日吉社領である河越荘の荘官。桓武平氏の流れを汲む秩父氏の一族に属し、武蔵国の最大勢力であった。秩父党の総領家が代々受け継ぎ祖父の秩父重隆も任じられた「武蔵国留守所総検校職」に任じられた(武蔵国の軍事統率権を有する)。
妻は源頼朝の乳母・比企尼の次女(河越尼)で、源頼家の乳母。
源頼朝の命令で源義経に娘(郷御前)を嫁がせた。しかし文治元年(1185年)、源氏兄弟の対立に巻き込まれ誅殺された。鎌倉幕府は嘉禄2年(1226年)、河越氏の復権を認めた(三男重員を総検校職に任じた)。
養壽院 河越重頼墓(川越市元町2丁目11−1)
川越まつり 中原町 河越太郎重頼山車