新古今和歌集の部屋

家長日記 女流歌人の衰退

此ころ世に女の歌よみすくなしなどつねになげかせ給。むかしより歌よみときこゆる女房せう/\侍。いんぶ門院の大輔も一とせうせにき。又さぬき、みかはの内侍、丹後、少将など申人々も今はみなよはひたけてひとへに後の世のいとなみしてこゝかしこの庵にすみなれて歌のこともすたれはてたればときどき歌めされなどするも念仏のさまたげなりとぞうち/\なげきあへるときゝ侍。此の人々のほかは又さらに聞こえず。心ある人のむげに思ひ捨てぬ道なればさる人も侍らむ。又みにはぢてつゝしむ人も多かればなにのたよりにかきこゆべき。されば女の歌よみはこの古人たちなからむ後は更にたえなむずる事をくちをしき事にたび/"\仰せらる。

※いんぶ門院の大輔
殷富門院大輔
※さぬき
二条院讃岐。源頼政女。正治二年後鳥羽院初度百首で久しぶりに出詠し、内裏百番歌合1216年(建保4年)が最後の出詠。
※みかはの内侍
二条院三河内侍。寂念女。七条院大納言の母。
※丹後
宜秋門院丹後。源頼行女。讃岐とは従姉妹。異浦の丹後。後鳥羽院御口伝では「故攝政は、かくよろしき由仰せ下さるゝ故に、老の後にかさ上がりたる由、たび/\申されき」。正治二年後鳥羽院初度百首に出詠し、住吉社歌合1208年(承元2年)まで出詠。
※少将
小侍従ではないかと言われる。正治二年後鳥羽院初度百首出詠。

コメント一覧

jikan314
Re:ちょうど源家長が…
情報ありがとうございます。
田渕先生の着眼点は鋭く、和歌試験に着目して歌人一人一人のその後を見事に分析されております。
家長は、元久詩歌合で当初選ばれていなかったが、後鳥羽院の参加を伝えた時に自分も出たいと要望するなど身分が低いにも関わらず、歌に対する熱意はすごいです。
定家は、身分の低い、しかも北面の武士の秀能は嫌いでした。和歌は貴族のものと言う意識が強かったからでしょう。
又コメント頂ければ幸です。
kunorikunori
ちょうど源家長が…
https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori
自閑さま

新古今集 後鳥羽院と定家の時代 を読んでいます。ちょうど43・44頁に秀能や具親、そして家長が出てきました。
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「新古今和歌集」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事