源氏物語 花散里
かの本意の所は、思しやりつるもしるく、人目なく、静かにておはする有樣を見給ふも、いとあはれなり。まづ、女御の御方にて、昔の御物語など聞こえ給ふに、夜更にけり。
二十日の月さし出づる程に、いとど木高き蔭ども木暗く見え渡りて、近き橘の薫り懐かしく匂ひて、女御の御けはひ、ねびにたれど、あくまで用意あり、あてにらうたげなり。
「すぐれてはなやかなる御おぼえこそなかりしかど、むつましう懐かしき方には思したりしものを」など、思ひ出で聞こえ給ふにつけても、昔のことかきつらね思されて、うち泣き給ふ。
ほととぎす、ありつる垣根のにや、同じ声にうち鳴く。
「慕ひ来にけるよ」と、思さるゝ程も、艶なりかし。「いかに知りてか」など、忍びやかにうち誦んじ給ふ。
橘の香をなつかしみほととぎす花散る里をたづねてぞとふ
いにしへの忘れがたき慰めには、なほ参りはべりぬべかりけり。こよなうこそ、紛るゝ事も、数添ふこともはべりけれ。おほかたの世に従ふものなれば、昔語もかきくづすべき人少なうなりゆくを、 まして、つれづれも紛れなく思さるらむ
ほととぎす、ありつる垣根のにや、同じ声にうち鳴く。
「慕ひ来にけるよ」と、思さるゝ程も、艶なりかし。「いかに知りてか」など、忍びやかにうち誦んじ給ふ。
橘の香をなつかしみほととぎす花散る里をたづねてぞとふ
いにしへの忘れがたき慰めには、なほ参りはべりぬべかりけり。こよなうこそ、紛るゝ事も、数添ふこともはべりけれ。おほかたの世に従ふものなれば、昔語もかきくづすべき人少なうなりゆくを、 まして、つれづれも紛れなく思さるらむ
五月雨の晴れ間に麗景殿にて郭公の鳴くを聞きて
源氏
橘の香をなつかしみほととぎす花散る里をたづねてぞとふ
よみ:たちばなのかをなつかしみほととぎすはなちるさとをたづねてぞとふ
意味:昔の人を思い出す橘の香りが懐かしいので、ほととぎすは、この花散る里を尋ねて来たのですよ。
備考:本歌 五月まつ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする(古今集夏歌 よみ人知らず。伊勢物語 六十段)
※いかに知りてか
いにしへのこと語らへばほととぎすいかに知りてか古声のする (古今和歌六帖)
※橘の香をなつかしみほととぎす
本歌
五月待つ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする(古今和歌集)
ほととぎす
麗景殿女御(花散里?)
御几帳
源氏
(正保三年(1647年) - 宝永七年(1710年))
江戸時代初期から中期にかけて活躍した土佐派の絵師。官位は従五位下・形部権大輔。
土佐派を再興した土佐光起の長男として京都に生まれる。幼名は藤満丸。父から絵の手ほどきを受ける。延宝九年(1681年)に跡を継いで絵所預となり、正六位下・左近将監に叙任される。禁裏への御月扇の調進が三代に渡って途絶していたが、元禄五年(1692年)東山天皇の代に復活し毎月宮中へ扇を献ずるなど、内裏と仙洞御所の絵事御用を務めた。元禄九年(1696年)五月に従五位下、翌月に形部権大輔に叙任された後、息子・土佐光祐(光高)に絵所預を譲り、出家して常山と号したという。弟に、同じく土佐派の土佐光親がいる。
画風は父・光起に似ており、光起の作り上げた土佐派様式を形式的に整理を進めている。『古画備考』では「光起と甲乙なき程」と評された。
27cm×44.5cm
令和5年10月29日 七點七伍/肆