内記入道寂心事
村上御代に内記入道寂心と云人ありけり。その
かみ宮仕ける時より、心に佛道を堅願て事にふれて
哀み深くなん有ける。大内記にて註べきこと有て内へ
参りけるに、左衛門陳の方に女の涙を流してなき
立てるあり。何事によりて泣ぞと問ければ、主の使にて
石のをびを人にかりて持て罷つる道に落て侍べれば、
主にも重く誡められむずらん。さばかりの大事の物をうし
なゐたる悲しさに帰る空もをぼへず思やる方なくてとなむ
云。心の内にはかるに実にさぞ思らんといとをしふて、我さ
したるをびときて取せてけり。もとの帯に非ねどむなしふ
失て申す方無らんよりも是を持て罷たらむは自ら
つみもよろしからんとて、手をすり喜て罷にけり。さて方
角にをびも無て隠れ居たりける程に事始りにければ、を
そしをそしと催されてこと人の帯をかりて其公事をばつ
とめける。中務の宮の文習ひ給ひける時も少し教へ
奉てはひま/\に目をひさきつゝ常に佛をぞ念じ奉りける。
有時彼宮より馬を給はらせたりければ乗て参りける。
道のあひた堂塔の類はいわず、聊か卒都婆一本ある
處には必ず馬より下て恭敬礼拝し、又草の見ゆる
處ごとに馬のはみとまるに心に任つゝ、こなたかなたへ行く
程に、日たけて朝に家を出る人未申の時までになむ成に
けり。とねりいみじく心つきなく覚へて、馬をあらゝかに打
たりければ涙をながし聲を立て泣悲みて云く。多かる
畜生の中にかく近付事は深き宿縁に非や。過
去の父母にもやあるらん何に大なる罪をば作ぞといと
悲しき事也と驚きさわぎければ、とねり云ばかり
無てまかりてぞ立歸ける。加樣の心なりければ池亭
記とて書をきたる文にも。、身は朝にありて心は隠にあ
りとぞ侍るなる。年たけて後頭をろして横川に上り法文
習けるに、僧賀上人未横川に住給ける程に是をおしゆ
とて、止觀の明寂なること前代未聞すと讀るゝに此
入道たゞ泣になく。聖さる心にてかくやはいつしか泣くべき。
あなあひきやうなの僧の道心やとて、こぶしをにぎりて打
給ければ、我も人もこそと、まかりて立にけり。程へてさてしも
やは侍るべき。此文うけたてまつらんと云。さらばと思てよ
まるゝに、前の如くなく。又はしたなくさいなまるゝ程に後
の詞もきかで止にけり。日比へて猶こりずまに御氣色と
りて恐々うけ申けるにもたゞ同樣にいとゞなきける
時其聖も涙をこぼして實に深き御法のたふとく覚
ゆるにこそと、あはれがりて静にさづけられける。かくしゝやむ
事なく徳いたりにければ、御堂の入道殿も御戒な
むど受給けり。さて聖人往生しける時は御諷誦
なんどし給ひて、さらし布百千たまはせける。請文には三
河入道秀句書とめたりけるとぞ。
昔隋煬帝の智者に報ぜし千僧ひとりをあまし、今
左丞相を訪ふ。さらし布もゝちにみてり。と
ぞかゝれたりける
※内記入道寂心 慶滋保胤(よししげのやすたね)。平安時代中期の貴族・文人・儒学者。丹波権介・賀茂忠行の子。官位は従五位下・大内記。家学であった陰陽道を捨てて紀伝道を志し、姓の賀茂を読み替えて慶滋とした。著書『池亭記』は、当時の社会批評と文人貴族の風流を展開し、隠棲文学の祖ともいわれている。漢詩は『本朝文粋』及び『和漢朗詠集』に、和歌は『拾遺和歌集』(1首)に作品が収載されており、現代まで伝えられている。
和漢朗詠集 刺史 保胤
雖三百盃莫強辞邊土不是醉郷
此一両句可重詠北陸豈亦詩国
※未申の時 午後1時から5時頃まで。
※僧賀上人 増賀、蔵賀とも書く。橘恒平の子。延暦寺で良源の弟子となる。
※御堂の入道殿 藤原道長
※三河入道 寂照。応和2年(962年)頃? - 景祐元年(1034年))は、平安時代中期の天台宗の入宋僧・文人。参議大江斉光の子。俗名は大江定基。寂昭・入空・三河入道・三河聖・円通大師とも称される。
※昔隋煬帝~ 新撰朗詠集 僧にも収録。智者は、中国の南北朝時代から隋にかけて天台教学の大成者、智顗(ちぎ)の事。天台宗の開祖であるが、慧文、慧思に次いで第三祖ともされている(龍樹を開祖とし慧文を第二、慧思を第三、智顗を第四祖とする場合もある)。天台大師、智者大師ともいう。