新古今和歌集の部屋

組打図絵 佐々木盛綱 藤戸合戦 蔵書


佐々木盛綱
このと
き先
じん
佐々木
盛綱は
軍事巧者
の勇し
るればひそかに

藤戸のわたり
にゆきて浦人をよび
よせ海中浅瀬の端所
をたづねけるにうら人
二三人申けるはしぶみ
見とゞけ置候間おん
さきだちつかまつらん
とて佐々木のぐんぜい
おめきすゝんでわたりける。

亦一説に淺瀬を聞●

其場にてさしころせしと

いゝ傳はれども盛綱なん

そかいせんや。亦いふ其ば

にてほふびをとらせし

ともいふ夫よりよおく朝

さゝきのせいにのこり

  なくいさみすゝんで

    わたりけるとぞ


佐々木盛綱
平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。加地 盛綱とも呼ばれ加地氏の祖である。近江の宇多源氏佐々木氏棟梁である佐々木秀義の三男として生まれる。初名は父の1字を取って秀綱(ひでつな)といった。源頼朝に伊豆の流人時代から仕え、その挙兵に従い治承・寿永の乱で活躍。備前国児島の藤戸の戦いでは、島に篭もる平行盛を破った。
能の『藤戸』、歌舞伎の『盛綱陣屋』にも登場する。備前国児島荘、越後国加地荘、上野国磯部などを領した。

元暦元年(1184年)12月、盛綱は平氏追討の為備前国児島に在り、7日には平行盛が率いる五百余騎が篭もる城を攻め落とす。この合戦は藤戸の戦いと呼ばれ、『平家物語』にも描かれており、島に篭もる行盛に対し、漁師から馬でも渡れる浅瀬を聞き出した盛綱が、藤戸の海峡の波を馬で乗り越え先陣を切って攻め入ったとされる。なお地元ではその漁師を口封じの為に殺したと伝わる。それを題材として、謡曲「藤戸」が作られた。


藤戸の戦い
平安時代の末期の寿永3年/元暦元年九月二十六日(ユリウス暦:1184年10月21日)に備前国児島の藤戸と呼ばれる海峡(現在の岡山県倉敷市藤戸)で源範頼率いる平氏追討軍と、平家の平行盛軍の間で行われた戦い。治承・寿永の乱における戦いの一つ。藤戸合戦、児島合戦とも言う。

備前国児島に城郭を構えた平行盛軍にたいして、源範頼軍は備前備中国境の藤戸の渡に陣を引いたが、船を平家方に取られたために渡海できなかった。佐々木盛綱は単騎で海岸に出て浦人に浅瀬を尋ねてこれを知った。翌二十六日朝、佐々木盛綱が浅瀬を渡ると、範頼軍はこれに続い手渡り、これにより行盛軍は敗退し屋島に退却した。範頼軍は更に西進し十月には安芸国に到った。

浅瀬の存在を聞いた盛綱は先陣の功を他人に奪われることを恐れ、教えた若者の漁師を殺害したという(覚一本『平家物語』)。

コメント一覧

jikan314
@chisei 遅生様
佐々木盛綱を題にして、謡曲藤戸に造形の深い遅生様なら、どう思われるのか?と思いつつ、投稿しました😃
この本の作者は、そんな事をするはずが無いとありますが、私は事実だと思っております😃
明日は、源氏絵の須磨をアップしようと思っていたのですが、新嘗祭ですので、五節舞姫の少女に差し替えますので、又御來室戴ければ幸いです。
chisei
『藤戸』も、能の場合は、殺された漁師の母親の語りが主で、観客はそれによって想像力を働かせ、情景を作り上げるのですが、こうやって図絵でみるとリアルになりますね。
同じような話が、私の近くにもあります。戦国時代、出水で一面海のようになった田の中を、信長軍が墨俣方面から浅瀬を渡って、故玩館の二つ南の集落にある斉藤龍興の城を攻め落としました(頼山陽『日本外史』)。おそらく、地元の百姓を道案内に使ったのでしょう。褒美をもらったのか殺されたのか、わかりません(^^;
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