○写真 長等神社歌碑
千載和歌集 巻第一 春歌上
故郷花といへる心をよみはべりける
よみ人しらず
さざ波や志賀のみやこは荒れにしをむかしながらの山ざくらかな
○写真 長等公園歌碑
忠度集 為業歌合に故郷花を
○写真 近江大津宮錦織遺跡歌碑
本歌
万葉集 巻第一
近江の荒れたる都を過ぎし時、柿本人麻呂朝臣の作れる歌
玉襷畝火の山の橿原の日知の御代ゆ 生れましし神のことごと樛の木のいやつぎつぎに天の下しろしめししを天みつ大和を置きてあをによし奈良山を越えいかさまに念ほしめせか天離る鄙にはあれど石走る近江の国の楽浪の大津の宮に天の下知らしめしけむ天皇の神の尊の大宮はここと聞けども大殿はここと言へども春草の繁く生ひたる霞立つ春日の霧れるももしきの大宮処見れば悲しも
反歌
楽浪の志賀の唐崎幸くあれど大宮人の船待ちかねつ
楽浪の志賀の大わだ淀むとも昔の人にまたも逢はめやも
近江の海夕波千鳥汝が鳴けば心もしのにいにしへおもほゆ
さざ波や志賀の都は荒れにしをまだすむものは秋の夜の月(久安五年右衛門督家歌合 藤原清輔)
○写真 長等公園歌碑
延慶本 巻第七 廿九さつまのかみみちよりかへりてしゆんぜいのきやうにあひたまふこと
そのなかにやさしくあはれなりし事は、さつまのかみただのりはたうせいずいぶんのかうしなり。そのころ、くわうだいこうくうのだいぶしゆんぜいのきやう、ちよくをうけたまはりてぜんざいしふえらばるる事ありき。既にぎやうがうのおんともにうちいでられたりけるが、のりがへいつきばかりぐして、よつづかより歸て、かのしゆんぜいのきやうのごでうきやうごくのしゆくしよの前にひかへて、かどたたかせければ、内より「いかなる人ぞ」ととふ。「さつまのかみただのり」となのりければ、「さてはおちうとにこそ」とききて、世のつつましさにへんじもせられず、かどもあけざりけれ
ば、そのとき忠度、「べちのことにては候わず。このほどひやくしゆをしてさうらふを、げんざんにいらずして、ぐわいとへまかりいでむ事のくちをしさに、持て参て候。なにかはくるしく候べき。たちながらげんざんしさうらはばや」と云ければ、三位あわれとおぼして、わななくわななくいであひ給へり。「世しづまりさうらひなば、さだめてちよくせんのこうをはりさうらわむずらむ。身こそかかる有様にまかりなりさうらふとも、なからむあとまでも、このみちに名をかけむ事、しやうぜんのめんぼくたるべし。しふせんじふの中に、このまきものの内にさるべきくさうらはば、おぼしめしいだして、いつしゆいれられさうらひなむや。かつうは又念仏をもおんとぶらひさうらふべし」
とて、よろひのひきあはせより百首のまきものをとりいだして、かどより内へなげいれて、
「忠度今はさいかいの浪にしづむとも、このよにおもひおくことさうらわず。さらばいらせ給へ」とて、涙をのごいてかへりにけり。
しゆんぜいのきやうかんるいををさへて内へかへりいりて、ともしびのもとにてかのまきものを見られければ、しうかどもの中に、「こきやうの花」といふだいを。
さざなみやしがのみやこはあれにしをむかしながらの山ざくらかな
「しのぶこひ」に。
いかにせむみやぎがはらにつむせりのねのみなけどもしる人のなき
そののちいくほどもなくて世しづまりにけり。かのしふをそうせられけるに、ただのりこのみちにすきて、道よりかへりたりしこころざしあさからず。ただしちよくかんの人の名を入るる事、はばかりある事なればとて、このにしゆを「よみびとしらず」とぞいれられける。さこそかわりゆくよにてあらめ、てんじやうびとなむどのよまれたる歌を、「読人しらず」といれられけるこそくちをしけれ。
○写真 大津京シンボル緑地歌碑
源平盛衰記卷第三十二
第三十二 落行人々歌付忠度自淀歸謁俊成事
中ニモヤサシキ事ト聞エシハ、薩摩守忠度ト申ハ入道ノ舎弟也。淀ノ河尻マデ下タリケルガ、郎等六騎相具シテ、忍テ都ヘ歸上ル。如法夜半ノ事ナルニ、五條三位俊成卿ノ宿所ニ行テ門ヲ扣ク。内ニハ是ヲ聞ケレ共、懸ル亂ノ世ナル上、イブセキ夜半ノ事ナレバ、敲共々々開ザリケリ。餘ニ強ク敲ケレバ、良久有テ青侍ヲ出、戸ヲヒラカセテ是ヲ問。忠度ト申者、見參ニ申入度事アリテ參タリト答ケレバ、三位大庭ニ下、世ニ恐テ内ヘハ入ザリケレ共、門ヲバ細目ニ開テ対面アリ。忠度宣ケルハ、懸身トシテ御タメ憚アレ共、所詮一門榮花尽テ都ニ不安堵、西海ヘ落下侍、亡ン事疑ナシ、世静テ後、定テ勅撰ノ沙汰候ハンカ、縦身ハ八重ノ鹽路ノ底ニ沈トモ、藻鹽草書置末ノ言葉、後ノ世マデモ朽ヌ形見ニ伝ハリ侍レカシト思出テ、河尻ヨリ忍上テ侍、是ゾ年比讀集タリシ愚詠共ニテ侍ル、身ト共ニ波ノ下ニミクヅトナサン事遺恨ニ侍リ、是ヲ砌下ニ進置候、勅撰之時ハ必思召出ヨトテ、卷物一卷、泣々鎧ノ引合ヨリ取出タリ。三位感涙ヲ流シ、是ヲ請取、御詠一卷預置候畢、是永代秀逸ノ御形見、未来歌仙ノ為指南歟、此怱劇之中ニ御音信ニ預事、恐悦不少候哉、縦浮生ヲ万里ノ波ニ隔トモ、御形見ヲバ一戸ノ窓ニ納テ、勅撰ノ時ハ思出侍べシト宣ヘバ、忠度今ハ身ヲ波ノ底ニ沈メ、骨ヲ山野ニ曝トモ思事ナシトテ馬ニノリ、古詩ヲ、
前途程遠馳思於雁山之暮雲
後會期無霑纓於鴻臚之暁涙
ト打上々々詠シツゝ、南ヲ指テゾ落行ケル。本文ニハ、後會期遥也ト書タルヲ、忠度還見ルべキ旅ナラズ、今ヲ限ノ別也ト思ケレバ、後會期無ト詠シケルコソ哀ナレ。三位モ遺ノ惜シテ、遥ニ是ヲ見送テモ、アハレ世ニ在シニハ、此人共ニコソ諂追従セシニ、替習トテ、今ハ門ヲ隔ル事ノ悲サヨト、哀ナルニモ涙、優ナルニモ涙、忍ノ袖ヲゾ絞ラレケル。
代静テ後千載集ヲ撰レケルニ、忠度ノ此道ヲ嗜、河尻ヨリ上タリシ志ヲ思出給テ、故郷ノ花ト云題ニ、讀人シラズトテ一首被入タリ。
サゞ浪ヤ志賀ノ都ハ荒ニシヲ昔ナガラノ山桜カナ
トヨメル歌也。名字ヲモ顕シ、アマタモ入マホシカリケレ共、朝敵トナレル人ノ態ナレバ憚給テ、只一首ゾ被入ケル。亡魂イカニ嬉ク思ケン、哀ニヤサシクゾ聞エシ。
○写真 園城寺桜