兼載雑談一、後鳥羽院、家隆卿に、今天下一の作者誰ぞと御尋ねありしに、明けばまた秋の半も過ぎぬべしの歌を、たゝんがみに書きて、おとして罷り退きしとなり。※明けばまた明けばまた秋の半ばも過ぎぬべしかたぶく月のをしきのみかは(新勅撰 秋歌上 定家)十訓抄第一可施人惠事一ノ三十六近ごろの歌仙には、民部卿定家、宮内卿家隆とて、一雙にいはれけり。そのころ、われもわれもとたしなむ人多けれど、いづれも、この二人には及ばざりけり。ある時、後京極攝政、宮内卿を召して、この世に歌詠みに多く聞ゆるなかに、いづれか勝れたる。心に思はむやう、ありのままにのたまへと御尋ねありけるに、いづれも分きがたくと申して、思ふやうありけるをいかに/\と、あながちに問はせ給ひければ、ふところより畳紙を落して、やがて罷り出でけるを、御覽ぜられければ明けばまた秋のなかばも過ぎぬべしかたぶく月の惜しきのみかはと書きたりけり。これは民部卿の歌なり。かねて、かかる御尋ねあるべしとは、いかでか知らむ。もとよりおもしろくて、書きて持たれたりけるなめり。これら用意深きたぐひなり。十訓抄秀歌