序
花園三位公燕卿
波龍主人
※生没年:1781-1840
1820 近衛権中将
1820 従三位
1824 正三位
明徴作意 旁及故事
歌道可講 異文兼備
一夕之話 百人之詩
蘿月片影 桂林一枝
小林散人題
※篠崎小竹(天明元年(1781年) – 嘉永4年(1851年))は、江戸時代後期の日本の儒学者・書家。
詩・書に優れ、書籍を刊行しようとする者のほとんどが小竹に序・題・跋などの文章を求めるほど人気があった。
夫木
我国のかどの
郡
うち の 大極殿
にしも
をたぎの
里
大 の
宮
どこ
ろ
公朝
大極殿は、
八省の院の
正殿、大礼の
朝堂にして、
周の明堂に
比し、京城の
製は漢の 蒼竜樓
両京にならぶ。
拾芥和名
抄等の諸
書にあげ
たり。周茂
叔大極図説
を作り無極
にして大極と
いへり。大極は 竜尾道
天理の尊
号、道理最
大にして加へ
るなし。大は 江家次第曰
これ尊大の 寛平九年
義。極はこれ 以来於龍
充当以て 尾道東階
加ふるなき也。 上移御也。
故に天子の 敷莚於
朝堂大極を 御輿東邊
もつて 其上舁是
号く。 腰輿御。
平安京は、桓 百錬抄曰
武帝延暦 後三条帝
十二年正月甲 延文二年
午、使を山背 五月五日
國葛野宇太 大極殿鴟
村の地に遣し 尾可用木
都と遷給はん 之由宣下
事を定む。始 云々
は山背の新宮
を作り、同年六 龍閣道
月庚午、諸國を
して新宮の諸
門を造らしめ
同十三年 會昌門
冬十月車
駕こゝに遷
まします。
時に萬民
たゝへて平
らけく、安ら
けき都と、
謳歌しより
詔あつて平
安京と号
しよし、旧史
に見えたり。
百錬抄を
按るに治承
元年四月
廿八日樋口富
小路より火お
こり、火焔飛が
ごとく、八省大
極殿、小安殿、青
龍、白虎樓、應
天、會昌、朱雀
門および其外
地を拂うて焼
失す。これより
後、造営の事
なし。
盛衰記曰
さがの帝の御時空海
そうづ勅をうけ給は
つて大極殿の
額をかゝれたり
小野道風
これを見て
大極殿には
あらず
火極殿とぞ
見えたる
火極とは火極ると
讀めり未来いかゞ
あるべからん
筆勢
過ぎたり
とて 栖鳳樓
笑ひける
今かく
亡び
ける
こそ
あさ 應天門
まし
けれ
云々
伴ノ
善男
謀而
應天
門を
焼
源信
の
業な
りと
おと
せし
かど
後こと
あらわれて
罪に行
はる由
伴大納言画巻
物及宇治拾遺
にみえたり。
著聞集曰
むかし玄象
のうせたりける
に、公卿おどろ
き覚しめて、
秘法を二七日
修せられけるに
朱雀門の
上よりくびに
縄をつけて
おろしたりける。
鬼のぬすみ 朱雀門
たりけるにや
云々
續日本紀曰
聖武天皇天
平六年二月
癸巳朔、天皇
御朱雀門覧
歌垣云々。
朱雀門は官城
十二門の内南方
の門なり。南は
羅生門に通ず。
七軒五戸柱は
こと/"\く朱
漆にして瓦
は青薬を以
て焼。其欠講
おもひやるべ
し。
おほよそ京城の製すべて
漢家にならふ。大極殿八省
院の正堂にして天子百官
を朝するの所清朝これを
大和殿といふ今の禁闕紫
宸殿をまた是にかゆ更画史
いにしへを写すにはよく其製
度を考へ事時を察して
まさに人をして當時にさるが
如くならしむを以聖とす
今こゝに写す所は古き圖に
より新たに諸書を校合せて是
を画く精妙実に毛頻の
およぶ處にあらば。
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