など、覚しつゞけ給。律師のいとたう
ときこゑにて、念仏衆生摂取不
捨と、うちのべてをこなひ給へるが、
いとうらやましければ、なぞやとおぼ
紫
しなるに、まづ姫君の心にかゝりて、
地
思ひ出られ給ぞ。いとわろき御心なる
や。例ならぬ日かずも、おぼつかなく
のみおぼさるれば、御ふみばかりぞし
げう聞え給める行はなれぬべしや
と、心み侍る道なれどつれ/"\もなぐ
さめがたう、心ぼそさまさりてなん。
きゝさしたることありて、やすらひ
侍ほどをいかになど、みちのくにがみに、
うちとけかき給へるさへぞめてたき
源/
あさぢふの露のやどりに君を
をきてよものあらしそしづ心なき
紫
など、こまやかなるに、女君"もうちな
き給ぬ。御返し白きしきしに
紫
風吹かばまづぞみだるゝいろかはる
あさぢかつゆにかゝるさゝがに。とあり。
御てはいとおかしうのみなりまさる
源
物かなと、ひとりごちてうつくしと
ほゝゑみ給。つねにかきかはし給へば、
わか御手にいとよくにて、今すこし
なまめかしう、女しき所かきそへ
給へり。なにごとにつけてもけしう
はあらず。おほしたてたりしとおも
ほす。ふきかふ風もちかきほどにて
朝かほ 朝かほの女ばう
斎院にも聞え給けり。中将の君
文詞
に、かくたびの空になん物思にあくが
れにけるを、おぼししるにもあらじ
朝かほ
かしなどうらみ給て、おまへには
源
かけまくもかしこけれどもその
神のあきおもほゆるゆふだすきかな。
/
むかしを今と思ひ給ふるにもかひなく、
とりかへされん物のやうに、なれ/\し
げに、からのあさみどりのかみに、さか
木にゆふつけなど、かう/\しうしな
文の詞
して参らせ給。御かへり中将まぎ
ることなくて、きしかたのことを思給へ
出る。つれ/"\のまゝには、思ひやり聞え
さすることおほくはべれと、かひなく
のみなんとすこし心とゞめておほ
朝かほ
かり。おまへのは、ゆふのかたはしに
朝かほ
その神やいかゝは有しゆふた
すき心にかけてしのぶらんゆへ
ちかき世にとぞある。御てこまや
かにはあらねど、らう/\しう、
など、覚しつづけ給ふ。律師のいと尊き声にて、「念仏衆生摂取
不捨」と、打ちのべて、行ひ給へるが、いと羨ましければ、なぞ
やとおぼしなるに、先づ姫君の心にかかりて、思ひ出でられ給ふ
ぞ。いとわろき御心なるや。例ならぬ日数も、覚束なくのみ、お
ぼさるれば、御文ばかりぞ、しげう聞こえ給ふめる。
「行き離れぬべしやと、試み侍る道なれど、つれづれも慰め難う、
心細さ勝りてなん。聞きさしたること有りて、やすらひ侍るほど
をいかに」
など、陸奥紙に、打ちとけ書き給へるさへぞ、めでたき。
浅茅生の露の宿りに君を置きてよもの嵐ぞ靜心なき
など、細やかなるに、女君も、打ち泣き給ひぬ。御返し、白き式
紙に
風吹かばまづぞ乱だるる色変はる浅茅が露にかかるささがに
とあり。「御手は、いとおかしうのみなりまさる物かな」と、独
りごちて「美し」と微笑み給ふ。常に書き交はし給へば、我が御
手に、いとよく似て、今少しなまめかしう、女しき所、書き添へ
給へり。何事につけても、けしうはあらず。おほしたてたりしと
思ほす。
吹き交ふ風も、近き程にて斎院にも聞こえ給ひけり。中将の君に、
「かく旅の空に、なん物思ひにあくがれにけるを、おぼし知るに
もあらじかし」
など恨み給ひて、御前には、
掛けまくも畏しこけれどもその神の秋おもほゆる木綿襷かな
「昔を今と思ひ給ふるにも甲斐なく、とり返されん物のやうに」
なれなれしげに、唐の浅緑の紙に、榊に木綿つけなど、神々しう
しなして、参らせ給ふ。御返り、中将、
「紛る事なくて、来し方の事を思ひ給へ出でる。つれづれのまま
には、思ひ遣り聞こえさする事多く侍れど、甲斐なくのみなん」
と、少し心とどめて、多かり。御前のは、木綿の片端に
その神やいかがは有し木綿襷心に掛けて忍ぶらん故
「近き世に」
とぞある。御手、細やかにはあらねど、らうらうじう、
引歌
※/浅茅生の
後撰集 言の葉もみな霜枯れに成りゆくは露の宿りもあらじとぞ思ふ?
拾遺集 壬生忠見 茂ること真菰の生ふる淀のには露の宿りを人ぞ刈りける?
※/昔を今と 伊勢物語 三十二段 いにしへの倭文の苧環繰り返し昔を今になすよしもがな
京都 雲林院はかつては広大な大寺院であった。紫野の斎院は櫟谷七野神社一帯にあった。写真は紫野斎院跡付近。現在では両跡間は、凡そ400〜500m。