源氏物語 竹河
夕暮のしめやかなるに、藤侍従と連れてありくに、かの御方の御前近く見やらるゝ五葉に、藤のいとおもしろく咲きかゝりたるを、水のほとりの石に、苔を蓆にて眺めゐ給へり。まほにはあらねど、世の中恨めしげにかすめつゝ語らふ。
手にかくるものにしあらば藤の花松よりまさる色を見ましや
とて、花を見上げたる景色など、あやしくあはれに心苦しく思ほゆれば、わが心にあらぬ世の有樣にほのめかす。
紫の色はかよへど藤の花心にえこそかゝらざりけれ
まめなる君にて、いとほしと思へり。いと心惑ふばかりは思ひ焦られざりしかど、口惜しうはおぼえけり。
松に藤のかゝるを見てよみける 薫頭中将
手にかくるものにしあらば藤の花松よりまさる色を見ましや
よみ:てにかくるものにしあらばふぢのはなまつよりまさるいろをみましや
意味:自分の思い通りに出来るものならば、松より勝る藤の花の色を見て選ばない者はいないだろう。
備考:藤の花は、玉鬘の娘大君を指す。冷泉院に入内する事が決まって。
薫中将に和してよみ侍りける
藤侍従
紫の色はかよへど藤の花心にえこそかゝらざりけれ
紫の色はかよへど藤の花心にえこそかゝらざりけれ
よみ:むらさきのいろはかよへとふちのはなこころにえこそかからさりけれ
意味:紫は藤の同じゆかりの花なのに、大君の事は思い通りにはならなかった。
松
松 藤
藤 松 薫中将
松 藤
藤 藤侍従(黒髭大将三男)
松
藤
(正保三年(1647年) - 宝永七年(1710年))
江戸時代初期から中期にかけて活躍した土佐派の絵師。官位は従五位下・形部権大輔。
土佐派を再興した土佐光起の長男として京都に生まれる。幼名は藤満丸。父から絵の手ほどきを受ける。延宝九年(1681年)に跡を継いで絵所預となり、正六位下・左近将監に叙任される。禁裏への御月扇の調進が三代に渡って途絶していたが、元禄五年(1692年)東山天皇の代に復活し毎月宮中へ扇を献ずるなど、内裏と仙洞御所の絵事御用を務めた。元禄九年(1696年)五月に従五位下、翌月に形部権大輔に叙任された後、息子・土佐光祐(光高)に絵所預を譲り、出家して常山と号したという。弟に、同じく土佐派の土佐光親がいる。
画風は父・光起に似ており、光起の作り上げた土佐派様式を形式的に整理を進めている。『古画備考』では「光起と甲乙なき程」と評された。
26cm×45cm
令和5年11月15日 伍/肆