※本稿については、穢を扱うので一部差別的と言われてもしょうがない部分がある。
数年前からその事実について気がついていたが、本稿を書けと、命じる神託のような物があった。
一昨昨日、他の本を読もうとコーヒーを机に置いたところ、コーヒーカップが倒れ、膝に掛り、火傷を負った。二つの丸い火傷跡が、八坂神社の神紋である唐花木瓜紋の樣である。また、昨日職場の同僚が感染した。次はおまえを感染させるぞとご神託がある樣な気がした。
日本の神々は、穢を大変嫌うと言う私の信教と云う事でご容赦願う。
天明の大火
祇園祭の存続に最も影響を及ぼしたのが、天明の大火(別名団栗焼)である。天明八年一月三十日、東山祇園近くの団栗橋付近から起こった火事が、春一番級の風に煽られ、鴨川を越え洛内に燃え広がっていった。途中猛烈な上昇気流から火竜(火災旋風)が発生し、南から風が吹いていたのに、放射熱により南にあった東本願寺を焼き尽くした。西本願寺付近へ類焼が及んだ時、雨が降り西本願寺は奇跡的に焼失を免れ、所謂水吹き銀杏の伝説が生まれた。
一方、北に向かった火は内裏にも及び、公家の屋敷を焼き尽くし、二条城も被害を受け、東は上御霊神社手前、西は紫野今宮御旅所まで燃え広がった。ここで不思議な事に、宮城内の宗像神社には被害が無かった。宗像神社には樹齢600年を越える楠が今もそびえている。
翌日、火は再び鴨川を越え、頂妙寺及此辺の新地町を焼き尽くし東方寺院で止まった。
ここで不思議な事に、八坂神社、北野天満宮、今宮神社、上御霊神社、岡崎神社は無傷となった。下御霊神社には類焼が及んだが、倉の中の御輿のみ被害が無かった。これらの神社の性格から、この大火が、「洛内に有る不浄を全て焼き払った神罰」と言って良いだろう。
※拙ブログ平安ミステリー「天明の大火」及び翁草 洛陽(天明)大火2並びに翁草 洛陽(天明)大火3に詳細がありますので、参照ください。
その年の祇園祭は、多くの山鉾が焼失し、京都市内の商家も経済的損失を被ったので、参加できたのは、前祭で太子山、占出山、蟷螂山、四条傘鉾、山伏山、木賊山、綾傘鉾の七台、後祭で橋弁慶山、八幡山、役行者山、鯉山、鈴鹿山、鷹山の六台のみだった。
翌年の寛政元年(1789年)では、前祭 長刀鉾、太子山、綾傘鉾、四条傘鉾、霰天神山、月鉾、山伏山、蟷螂山、木賊山、占出山、鶏鉾、後祭 橋弁慶山、八幡山、鈴鹿山、役行者山、黒主山、鯉山、北観音山、鷹山と徐々に復活していった。
この原因と考えているのが、大火の前年に起こった御所千度参りである。
御所千度参りは、天明七年六月七日頃から始まった。初めは数人だったが、その数は段々増えて行き、六月十日には3万人に達し、十八日頃には7万人に達したという。御所千度参りに集まった人々は、京都やその周辺のみならず、河内や近江、大坂などから来た者もいたという。天明の飢饉などで社会不安が増しており、天皇の徳政を求めたものと言われる。
光格天皇がこれを許し、後桜町上皇、有栖川宮、一条家、九条家や鷹司家等が参拝客にりんご、茶、握り飯でもてなした。
7万人も集まれば、穢を持った者もいたことであろう。彼らが御所に押しかけては、神々も怒り、浄化しようと御神意を表したと思う。
焼け出され、避難した貴族に、避難先の者が水を出したが、この柄杓が穢れているのではないかと疑い、飲むことをしなかったと伝えられている。これほど公家は穢を恐れていたのである。
最近、祇園祭も様々な取り組みがなされているが、これは神事だと言うことを注意して欲しいと願っている。