さっきの投稿で水曜どうでしょうを取り上げて思った事を書きます。
視聴者層にはベタな人達が一定数居るのかと推察しています。
「ありきたりだ」、「よく見られるもので新味がない」と言うような状況になってもおばさんやおっさんはそれでも構わないのです。
一方、若者層で言えば飽きる、物足りなくなるとなってしまうのでしょう。
仕事や家事、その他に忙しいと構っていられませんよね。
それで余力があると実際に見に行くとか、会いに行くとか、食べてみるとか経験へと展開されます。
それでその余力が思わぬところへと向かうから下記の現象になるのかと予想されます。
例えば、一時期の会えるアイドルのような展開にしてもそれなのかと連想させます。
アイドルで歌は口パク、顔は整形、写真集は勿論修正ソフトとなれば本質的なものを掴みたくもなります。
実際に見に行くとか、自分達が育成しているような錯覚になるから不思議なんでしょうけど。
その余力もそうですが、目線が上からとは言いませんが、優しく見守るような状況なのかと想像されます。
またはもっと近い存在のような錯覚なのかとも思ったりします。
確かに一部の人達でしかもそれで満足しないような欲望と反面に優しさがあるのです。
それが共有されるとインフルエンサーのように話題になっているからと見て同感ならにわかのファンになります。
たいていはそれで満足するのでしょうね。
何しろ金銭的な余裕がないのが普通ですから。
例外的にそれに嵌ってしまう人達もいますが、そう言う世の中ですから、放っておかれますよね。
不思議なもので世の中はそれまでのアイドルやスターから、クラスにいるような人へとレベルが下がっていくのです。
クラスには一人いるような戯けた人物が注目されたりとかします。
また、飛びっきりの美人、可愛さよりも日常の喋れるタイプが重宝される価値観が生まれてしまいました。
書こうと思ったのは無理からにコスト削減するよりも作れる範囲でベストを尽くすのが見る側に反応させるようです。
その辺りの世の中の変化はあるのですが、その度合いが不要に前面に出ると疲れますよね。
適度な日常化はまだ許容されても度を越すと難しくなる傾向でしょう。
ふざけているのかと思うくらいになると引かれますよね。
見る側の欲求も最初の最高傑作から多数決的な汎用性の高い、しかも日常的な対象へと変化する事もあるのでしょう。
テレビ局の意図の下にマンネリ化した時点で飽きると他に面白いものへと移行していきます。
それが低予算とかで条件が変われば変わったで違う尺度でアイドルが見出されたりします。
その辺りの世の中の変化は気難しくて王道のアイドルや歌手などは居ても、多様な少数派で支えられる程度なら需要があるのかと思うのです。