おそらく、戦後78年の間普遍な文系文化が不幸を継続させた結果なのだろう。
別に普遍な文系文化は近年始まったのではなく、有史以降そのほとんどが国際的に何かの影響下で苦戦して来ています。
文字を持たなかった頃、中国からの影響で文字だけでなく、建築物や冶金なども同時期に入っています。
それに制度なども真似をしたから官僚制がより強い体制なのでしょう。
それ以降、16世紀の鉄砲伝来までその多くは近隣諸国の影響を受けていました。
17世紀以降の出島による厳しい出入国管理制度にしていました。
結局は文化こそ日本独自の進化をしたものの政治は戦わない武家社会の集大成で中心勢力とその他の勢力の間に距離を置いて平和を維持してもオリジナルでの政治文化が醸成されませんでした。
開国後、直ぐにまた欧米の議会文化へと移るのでしたからオリジナルで政治を良くする以前に体制維持が優先でした。
例えば利根川改修工事にしてもそうだと思うのですが、組織は上から指示で動くのと発想があってもそれを制度化すると言うより習慣化したような口頭伝承でした。
確かに版画はあれど、瓦版も未だ一部のもので識字率の問題があったのかと思います。
だから、ヨーロッパ文化などを模倣してやっと寺小屋、私塾から学校へと制度化されたように見えます。
それなりに影響がないとオリジナルでなかなか政治体制を理想的にしていかないのでしょう。
戦後の平和や政治体制もオリジナルにするのには影響力があって、55年体制が1996年に社会党が変更するまでその対立軸で維持されました。
東西冷戦などの国際的な影響下で、1989年のベルリン壁崩壊までその影響を受ける形になるのがとても経済成長した国とは無縁な国際社会への迎合路線でした。
その後もオリジナルの政党が出来たとしても結局は一代部屋が如くその主なメンバー限りで継続されずに来ているから維新の会のような地方自治的な改革政党が2015年に出現するまで70年も様子窺いをしていたように思えます。
お上や御法度の言葉があるように庶民からすれば政治が体制維持や治安維持が優先して人権保護があっても多くの無関心な層を未だに内包する社会です。
それ故に民主主義と言えど、民意が政治を動かすような展開は数える程で大きなムーブメントにならなかった事で戦後政治のレジームはずっとそのままにされていたのでしょう。
簡単に言うと、失敗を恐れてオリジナルの政治へ踏み出さなかったのかと思います。
失敗には米国との関係悪化も含めて国際社会での立場の弱さがそうさせているのも明確です。
資源国家でもなく、加工貿易等をメインに国際収支を考えるとやはり譲歩せざるを得ない立場ですから。
ただ、それも考えた上での日本独自の政治体制を構築しても良いのでしょう。
憲法にしても国民が自分達のものだとそう理解するだけの行為をさせません。
その上に最終的には最高裁解釈判断なので国民がこうなるだろうと予測出来る以外の事さえも起きます。
それでもこれまでその判決に逆らうデモとかなく、むしろその判決に政治が従えと言うような選挙制度改革のような状況です。
それで一票の格差がなくなっても投票率が上がるようでなく、一部に諦めと無関心が同居した感覚なのでしょうか?
やはりどう考えても戦後政治体制を再構築するような理由がなかったのが大きいのかとも推論されます。
1992年の日本新党のような動きがあってもその後に続かなかったのは社会の大きな個性なのかと思われます。
他の文化だと対立点が明確になる歴史や宗教、経済がありましたが、日本はその対立軸が明確になっても 「和を以て貴しとなす」と言うようなベースが崩せないのでしょう。
例外は都民ファーストのような動きで選挙民が自己の利益を明確にして企業収益や既得権益などへの関心を持って政治の中立性を選挙民の為にもなるようにしないと難しい時代なのでしょう。
カジノの件がそれで税収期待等であってもその問題からすれば明確に反対しないといけないような話です。
しかしながら、以前もそうでしたが曖昧にしているうちに増税との天秤とかで導入されてしまうのでしょうね。
結局、もう少し自分達の事と言う意識が有権者に芽生えないと戦後政治体制を変えるだけのエネルギーにならないのが文系文化の歴史的な力不足なのでしょう。