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■■■■■■■■■続:辞世の句■■■■■■■■■■
北條俊彦
経営コンサルタント、前 住友電工タイ社長
■■一休宗純と千利休
⚫️最近, 宇宙で最も早い時期に形成された銀河と考えられるものが
米航空宇宙局(NASA)のジェイムズ・ウエッブ宇宙望遠鏡で発見さ
れたらしい。
私も科学者の端くれではあるが,この世は実に不可思議なことだらけ
で,日常非日常に起こる事象についてそのメカニズムや真因が全く判
っていないことを今更ながら思い知る。
●NASA宇宙の風景
“宇宙や天地間に存在する全ての事象“即ち,森羅万象の原理やその意
味が分かるのは、恐らく万物の創造主である神さまだけだろう。
⚫️古代中国の『書経』洪範の章に説かれた五行説(自然哲学の思想)
は,天地万物は火・水・木・金・土の五元素が,互いに影響を与え合い、
その生滅盛衰によって変化・循環するものと考えている。
天地万物の変化や循環の仕組みの中,「めぐりの原理」で人は生命
を宿され、天命・運命・宿命を背負って生きていくことになる。
天命は天から与えられた約束事、即ち,この世に生まれ出た理由。
宿命は其々,既に定められた役割で変えることはできない。
運命は生まれ出た後に身に起こる事象で,己の努力次第で変えること
ができる。
「知者所天之為、而天生也」
二宮尊徳は「天道人道論」の中で『人は,己が命を天(神)の意に,如
何に乗り合わせられるか。これが人の生きる(生かされる)意味である』
と人の道を説くが,残念ながら私はいまだ天(神)の意を悟れずにいる
⚫️1997年に東西線が開通し,片町線終点の片町駅が大阪城北詰駅に
置き換わり廃駅となった。通称も学研都市線と変わり, 片町線と案内
されなくなってしまった。
但し正式な路線名は今も片町線で,京橋駅〜木津駅の間24駅を繋ぐJR
西日本の鉄道幹線に変わりはない。その片町線京田辺駅を下車して、
徒歩約15分の処に京都の隠れた名所『報恩庵一休寺』がある。
●一休寺報恩庵
⚫️訪れる人も少なく,閑静な佇まいと威厳のある門構え,そして寺内
には典型的な禅苑庭園として有名な方丈庭園がある。
松花堂昭乗、佐川田喜六、石川丈山による合作と伝わるが,その清楚
な趣の禅苑は南庭,北庭,東庭の三面からなり,春は櫻,夏緑,秋の紅(黄)
葉に冬は雪, と四季折々に変化する景色は, 観る人の心を楽しませて
くれる。
寺には,一休禅師の木像(実寸大)や多くの遺品が遺されており,往時
を偲ぶことができる。 そして『色即是喰う』精進料理で空腹を満た
すのも一興, 人気のメニューは一休寺弁当と森女弁当。一休伝授の一
休寺納豆も有名である。 ●森女弁当
●一休寺納豆ずくり
この寺は、康正年中(1455〜56)に一休が再興させた臨済宗大徳寺
派の寺で「報恩庵」と命名されている。晩年はここで過ごし 81歳
で大徳寺住職となった後も,この寺から通っている。
一休宗純は臨済宗大徳寺派の禅僧。後小松天皇(北朝方)の血を引
くと云われ,その高貴な出自と不遇な境遇から多感な幼少期を過ごし
ている。人生を達観し,悟りの境涯(風狂)を自由奔放に生き,伝統的
権威や権力を得意の頓知で揶揄し続けた。彼の頓知は,名声利欲に囚
われず社会を鋭く批判し続けた彼の生き様であったと思う
●一休和尚の墓所、宮内庁
当時としてはあり得ない事として, 一休は、宗派の違う(浄土真宗)
蓮如上人との親交が深かった。
⚫️漢詩作品集狂雲集「自賛」から、
風狂狂客起狂風
来往淫坊酒肆中
具眼衲僧誰一拶
画南画北画西東
詩意は「風狂なる拙僧は狂風を起こし、悪所と酒屋に通い続ける。
炯眼ある禅僧達よ, 自由自在な我が心の真意が見えるのか, いや見え
る筈などない。」なところ?
*「風狂」とは,
禅宗において重要視される肯定的用語であり, 仏教本来の常軌を逸し
た行動を“悟りの境涯“を表したものとして肯定的に捉えている。
🔵一休寺、茶の間にある襖絵 ●一休宗純の像
⚫️名付け親である大徳寺高僧華叟宗曇(かそうそうどん)は, 一休
の道歌「有漏路より 無漏路へ帰る 一休み 雨ふらば降れ風ふかば吹け」
から引用し、“一休”を道号として授けたと伝わる。
*有漏路(うろじ)は迷い(煩悩)の世界, 無漏路(むろじ)は悟り
(仏)の世界を意味する。
一休辞世の句
『借り置きし 五つのものを 四つ返し 本来空(くう)に今ぞもとづく』
句意は「生老病死、成住壊空のままにありながら,与奪自在, 殺活自在、
自由自在に生きてきた(真正成壊)。地水火風(色法)を返し,今こそ空
の境地を会得するのだ。」なところか?
また、次のような強烈な句も残している。
『一休の禅は一休にしか分からない, 朦々淡々として六十年,末期の糞
をさらして梵天に捧ぐ』そして『まだ死にとうない』, 風狂を極めた
一休の臨終の言葉であるが、その言葉の真意は分からない。
文明13年座脱遷化(享年88歳)遺骨は寺内に葬られる。
“南無釈迦牟尼佛”
最後に,睦ましく心暖かな関係にあった 森盲女の歌をご紹介したい。
『おもひねの うきねのとこに うきしずむ なみだならでは なぐさ
みもなし』
⚫️茶の湯とは,日本伝統の湯を沸かし,茶を立て茶を振舞う行為であ
る。侘び茶の源流は,将軍足利義政の茶の師匠村田珠光が「亭主と客
との精神的交流を重視する茶会の有り方」を説いたことに始まる。
その後,堺の町衆武野紹鴎、そしてその弟子千利が完成させたと云わ
れている。
侘び茶の祖村田珠光は一休の弟子であり,当時、茶の湯は禅宗におけ
る宗教的な行事であった。
珠光は,不完全だからこそ美しいもの「不足の美」を茶の湯に求め
そして心の成長を目的とし 形式よりも茶と向き合う者の精神性を重
視している。
武野紹鴎は,珠光の「不足の美」に禅の思想を深く取り込み, 高価な
名物茶碗を盲目的に有難がるのではなく, 日常の生活雑器を使うなど
茶の湯を簡素化している。
そして簡素な中に精神の充足(深み)を追求し,枯れた境地“侘び(枯淡)
を求めたのである。
(●侘茶の祖村田珠光)
⚫️茶の湯を大成させたのが千利休と云われるが,利休は太閤秀吉庇
護の下, 茶の湯で名を成した芸術家、演出家である。
人を楽しませ広く行き渡ることを目指すのが芸能であり,自己表現を
追求し,深く行き着くことを目指すものが芸術。利休は芸能としてで
はなく文芸、美術、舞踏、音楽等の様式を基盤に 茶の湯を芸術とし
て深めることに努めている。
茶の湯は自由奔放、無邪気に茶の湯を楽しむ太閤秀吉によって芸能
として極められた。その極致が北野の大茶会である。
そして秀吉は演出家としても利休を超えた。黄金の茶室も然り,利休
はそれを悟り天才肌の秀吉へ強烈な嫉妬心とライバル意識を抱き、
己が芸術への特化を急がせたのであろう。
そもそも 珠光や紹鴎らの茶の湯と利休とでは根本的に素性が全く違
う。利休の茶の湯は,政治と密接に繋がっており、彼自身の承認欲求
と権力欲求を満たすことから始まっているように思える。
●太閤の茶席
⚫️強烈な自我と表裏背反する数々の言動, そして芸術家として完璧
を求めながらも, 芸術家にとっては無用の俗世欲を捨て去る事のでき
なかった男、それが利休ではなかったか。
また茶の湯の一様式として “簡素簡略の侘茶“を極めようとしている
が,利休の”侘び“は“幽玄閑寂なる美意識”や“哲学”ではなく,また人生
観や悟りの境地にまで至ってなかったのではないだろうか?
利休の茶の湯は武士階級に大いに広まり,利休七哲の一人古田織部が
利休の後継者として,武家の茶の湯織部流を起こす。
織部は利休の『人と違うことをせよ』との教えを忠実に実行し,大胆
かつ自由な発想(破調の美)で,茶器製作・茶室建築・作庭など多岐
に亘る「織部好み」といわれる一代流行をもたらしている。
●織部焼と古田織部(出所:JIJI通信)
⚫️天正19年、利休は豊臣秀吉の逆鱗に触れた。
堺に蟄居の後,京に呼び戻され、聚楽邸内で切腹を命じられている。
享年70歳。そして,その首は一条戻橋に梟首された。
●大徳寺金毛閣に掲げられた利休木像
死の前日に作ったとされる遺偈が残されているが,感情を爆発させた
激しい辞世であり,凡そ“侘び寂び”を求めた茶道家のものとは考えら
れない。
「人生七十(じんせいしちじゅう)
力囲希咄(りきいきとつ)
吾這寶剣(わがこのほうけん)
祖佛共殺(そぶつともにころす)
提(ひっさぐ)ル
我得具足(わがえぐそく)ノ
一太刀(ひとつたち)
今此時(いまこのとき)ゾ
天二抛(なげうつ) 」
●千利休像
やはり現在に伝わる利休像は, 後の世に弟子達によって美化された虚
像なのか。また『利休由緒書』に, 堺への蟄居にあたり利休が詠んだ
句が紹介されている。
『利休めは とかく果報のものぞかし 菅丞相になるとおもへば』
菅丞相とは、讒言により太宰府へ左遷され非業の死を遂げ、天神様
として祀られた菅原道真である。己が身を菅公に例え, 死して後, 神
として祀られると考えたのだろうか, いかにも自尊心, 自己顕示欲の
強い利休らしい句である。
高弟,山上宗二は『山を谷, 西を東と茶湯の法度を破り, 物を自由にす』
と利休の侘び茶に批判的な見解を「山上宗二記」で述べている。
彼もまた,秀吉を激怒させ処刑されている(耳と鼻を削がれた上で斬首)
享年46歳。 まさに秀吉の時代は茶道家受難の時代であった。
●山上宗二記 ●利休プロデユース黒楽茶碗 藤田美術館
⚫️追記:織部も大坂落城後、豊臣方への内通の嫌疑で切腹を命じられ、
嫡子は斬罪、一族もほぼ誅され、織部家は断絶する。
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