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■■■■■■■■益荒男と美しい日本の心■■■■■■■■
北條俊彦
経営コンサルタント・前 住友電工タイ社長
■■益荒男と美しい日本の心
🔵川端康成は、ノーベル賞受賞記念講演「美しい日本の私-そ
の序説」で、自然を愛し見つめ, それを友とした 古の日本人の
心性や宗教観を語った。
即ち , “白”に最も多くの色を見 “無”に 全てを蔵する美意識, 豊
饒さを心の内に包んで 簡素, 閑寂を愛する 日本人の美の心を端
的に表現, また35歳で自殺した 芥川龍之助が 遺書の中に著し
大変「末期の目」という 言葉に惹かれた川端は『人の末期の
眼には自然は一層美しく映じるもの』であること,
そして(移ろい行くものにこそ 美を感じる日本人の無常観)と
共に 『自分の死後も自然は, なお美しい』という 感覚の世界を
説き『日本人にとって生の場合と同様に死も自然との合一、自然
への回帰である』と日本人の死生観を説いている。
『大和は国のまほろば たたなづく青垣 山籠れる 大和うるはし』
大和は国の中で一番良いところである。
幾重にも重なりあう垣根のような山々に囲まれた 大和はほんと
うに美しくて立派な國である」とヤマトタケル(日本書紀では 日
本武尊、古事記は倭建命と表記)は詠んだように, 我々日本人に
はかくも美しく 愛することのできる故郷があることに 感謝した
い。
🔵第12代天皇景行天皇の皇子とされるヤマトタケルは、父も
恐れた荒ぶる武神として 西征の途に着き、熊曾建と出雲建を討
伐する。更に,東征を命じられては連戦連勝を重ね、遂には 蝦夷
をも平定した。
長征を終えた英雄ヤマトタケルは、漸く,愛する故郷大和へ 帰れ
ることになるが, 途上、草薙の剣を持たず出向いた伊吹山で山神
の怒りに触れ病を得る。やがて能褒野で力尽きてしまう。
先述の歌はヤマトタケルが 臨終の際に詠んだ日本最古の辞世の
句とも云われ, 大和生還の願いも叶はず, 能褒野で亡くなった 英
雄の魂は白鳥となり, 大和を指して飛んでいったと記紀伝説には
記されている。
(写真)国宝古事記 中巻:出典:奈良国立博物館
英雄ヤマトタケルの母親は, 景行天皇最初の皇后である播磨稲日
大郎姫であり、播磨国風土記には 景行天皇との伝承が記される
母親の陵は, 加古川市加古川町大野にある日岡陵(ひおかのみさ
さぎ)とされる。
🔵米国の政治学者で「文明の衝突」の著者 サミュエル・ハン
テイントンは世界の八つの文明の一つとして, 日本文明は唯一無
二の文明であり, 単一国家であると著した様に 我が国は 紀元前
660年神武天皇の建国から約2700年, 万世一系の天皇が統
治されてきた世界最古の国である。そう,我々には 悠久の歴史と
大和民族の誇りがあるのである。
しかし,先の大戦の敗戦後, 占領軍であるGHQによる 徹底した洗
脳, 及び,愚民化政策によって 日本人は民族としての誇りと 矜持
を失ってしまったようである。
また,日本には戦の負けは潔さが大切という文化があったようで、
例えそれが真実でなくとも,勝者の一方的な主張を全て受け入れ
てしまった。ある意味、無責任で禍根を残す行為であった。
やがて日本人の心は, 卑屈な負け犬根性へと堕落して行く。
戦いには戦うものの信念や誇りがあるように、敗者の立場であ
ろうが譲れない信念や真実(自衛の戦争であった)は主張し続
けるべきであった。しかもポッダム宣言は有条件降伏であった。
日本人の誇りや, 敗者の美徳など 欧米の帝国主義者に 何ら理解
されるものでは無いのだ。
・写真:(国際軍事裁判、出典JIJI)
東京軍事裁判は, 国際法を完全に無視した勝者による傲慢, 且つ、
卑劣極まる報復裁判であった。連合国軍側の日本軍捕虜や民間
人に対する戦争犯罪は一切裁かれていないのである。
私は歴史修正主義者ではないが,敗者にも正義と誇りがあるよう
に先の大戦の真実の解明 と日本人の正義と誇りが取り戻されこ
とを切に望みたい。
そして先の大戦で亡くなられた英霊に対し,日本国民が, 心からの
敬意と感謝の気持ちをもって慰霊ができないものであろうか。
何故日本人でありながら、英霊を貶める人がいるのか?
家族や子供達, そして日本の将来のために命を賭して戦って頂い
た方々であり、その将来に,今 我々が生き, 生かされていること
を決して忘れてはならない。日本人の心の問題である。
🔵国際平和とは名ばかりで、国連は戦勝国の都合良き持ち物と
してのみ機能し(拒否権、敗戦条項)未だ世界では 戦争が絶えな
い。また, 日本は国連負担金だけでなく、アメリカのATMとして
言われるままに金を搾り取られている。売ることも許されない米
国債を買い続け、無償, 有償等海外支援として 国民の税金を湯水
のごとく使い続ける。酷いのは, つい最近まで 世界第2位の経済
大国に経済支援を継続している(終了は2024年)。
日本の政治家の愚かさには呆れ果てる。我国は先の大戦では蒋介
石率いる国民党軍(中華民国)と戦ったのであり, 逃げ回っていた
毛沢東の共産党軍とは戦火を交えていない。
中華人民共和国は、毛沢東が1949年に 建国宣言を行った日に
成立したのである。1972年に田中角栄が訪中, 日中共同宣言
において周恩来は戦後賠償を放棄した。しかし,それでも見返りと
して、結局ODA名目で総額3兆6,600億円を拠出している。
米国に貢ぐため、増税増税と財務省の官僚に吸い上げられ、世界
第2の重税国家として
・法人税38.01%、
・個人税15〜50%、
・給与税25.63%、
・消費税8%
国民は搾取され益々貧しくなり、しかも税金は国民のために使わ
れない。
税の負担は四公六民から五公五民、六公四民と 江戸時代なら百姓
一揆が起こってもおかしくない状況だ。
この財務省と米国との癒着構造を変えない限り 日本国民はいつま
でもこの貧しさからは脱却できないであろう。
同じ敗戦国のドイツは、ドイツ国民がヒトラーという一狂人と狂
騒曲を奏でていたが、戦後「ヒトラー個人」を悪人として裁き、
「ドイツ国民は被害者との立場」を変えていない。
(写真)西尾幹二先生 出典:産経新聞
『ドイツは自国民に対し謝罪しているが、交戦国には謝罪していな
い。ドイツはナチスという危険団体を選んだことに謝罪しているだ
け。ナチスの戦争犯罪のスケールは国家、そのものが犯罪集団と化
した桁違いのものであって、戦時下の日本との比較はそもそも不可
能げある。(西尾幹二:独文学者、評論家)』
勝者によって歪められた近現代史について超然とした姿勢で正論を
発信し続け、日本人としての誇りと矜持を持ち続けた知の哲人が二
人居られた。自虐史観の是正に尽力された保守派の言論人の重鎮と
して、その言論で幾度となく日本を救ってこられたのが西尾幹二先
生と渡部昇一先生である。両先生のご功績に感謝すると共に, ご意
志をしっかりと継承して行く責務が我々にあることを強く認識すべ
きであろう。
🔵戦前, 軍人さんは尊敬されていた。何故なら命をかけて国と国民
を守ってくれるからである。幼年学校、士官学校、大学校と軍人養
成の学校に入るのは至難の技だ。
また,人気は高く「軍人さん」になることは、少年達の夢の一つでも
あり,競争も激しく今でいう偏差値(学力)や運動能力(体力)が秀
でていなければならなかった。
従って、そういう経歴を歩む者は故郷の誉として 多くの人々の期待
を一身に受け,送り出されている。西播磨にもそんな軍人さんがたく
さんいたのであろう。
1945年8月15日午後、先の大戦の終結を告げる玉音放送が 流
され日本は敗戦の日を迎える。その放送を阻止しようと 陸軍の青年
将校達が起こした反乱宮城事件を鎮圧したのが 田中静壱陸軍大将で
ある。陸大の軍刀組であり、オックスフォード大留学の田中は, 知米
派軍人の道を歩みマッカーサーとも親交があった。
連合国軍上陸に備え迎撃計画を練り上げるも、反乱鎮圧が最後の任務
となった。最後の反乱川口放送所占拠事件を鎮圧したその夜自決した。
遺書では「将兵一同に代わり」と述べている。彼の墓地は龍野市内に
あり,姫新線本龍野駅前に墓地の方向を示す石碑がある。もう一人龍野
出身の陸軍大将に藤江恵輔がいる。次に 泥沼の日中戦争の契機となっ
た満州某重大事件の計画立案者とされる河本大作陸軍大佐は、佐用町
出身である。
生家跡の隣にある明光寺境内に その顕彰碑が在る。旧出雲街道から旧
三日月町の古い町並みに入り、狭い道路を進むその先に 明光寺がある。
訪れる人もなく,顕彰碑は鮮やかな黄金色の銀杏の黄葉に埋まっていた。
副碑に河本の肖像レリーフと彼自作の歌『赤い夕陽の 満州野が原に櫻
咲かしょと ひとり旅』が記されている。
また裏面には 河本の経歴が記されている.「明治16年1月24日佐用
郡三日月町三日月河本参二三男として生まる. 明治37年陸軍歩兵少尉。
同年日露役に従軍負傷。大正3年陸大卒。同15年関東軍参謀。昭和5
年陸軍歩兵大佐。予備役に編入後、満鉄理事満炭理事長 山西産業社長。
終戦後中共軍の進出にて戦犯となり,太原収容所にて 同28年8月25
日病没す70歳。」
(写真)明光寺/撮影
(写真)河本大作顕彰碑、副碑
🔵1928年(昭和3年)6月4日中華民国奉天省奉天市近郊で奉天
軍閥指導者張作霖が爆殺された。満州における 日本の勢力拡大を図る
ため日本の関東軍(河本大作)が引き起こした事件と言われるが, ソ連特
務機関による犯行説もあり真偽は分からない。
関東軍犯行説の主要人物として言われる河本の,その後の経歴から(陸軍
退役後の満鉄における要職を歴任)関東軍内の複雑な構図が想像できる。
いずれにしても東京裁判で検事側証人陸軍田中隆吉の証言とその真偽も
確認されないままに、関東軍犯行説と断定されるなど事実関係が曖昧な
点が多い。
パール判事は判決文で「田中は検事側が,証拠の埋め草に使った」と批評
している。『事実は小説よりも奇なり』である。
蛇足だが、日露戦争で戦死した乃木中将の次男保典と,河本は陸大の同級
生である。
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