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北條俊彦
経営コンサルタント・前 住友電工タイ社長
■■「日本の祭り」
🔵旧暦で11月は冬至を含む月が11月で、霜だけでなく雪も降る
季節。和風月名では「雪待月」ともいう。
しかし,樹々の紅(黄)葉はこれからであり,季節は正に秋なのである。
淀屋橋や本町界隈のビジネスマンにとって御堂筋の銀杏並木は見慣れ
た景色、もう色づき始めているのだろうか?
佐用駅の周辺に樹高26m、幹回り7.2m樹齢千年と伝わる大銀杏が
堂々とそびえ立つ。私はその姿に魅せられ、通勤の度に姫新線の車窓
から眺めつつ大銀杏が黄金色に輝く日を心待ちにしている。
播州地方は既に稲刈りも終わり、新米と共に豊かな秋の実りが 市場
に出回る。嬉しいことにお隣の農家から新米を玄米で分けて頂いた。
玄米を精米していただくのは初めてだが太陽の光と自然豊かな大地、
そして清流千種川の水の恵に育まれた佐用の米は、実に美味しいの
である。
みのりの秋は、祭りも旬の季節でもある。播州は歴史的にも古く,実
り豊かな地域であり、五穀豊穣の祈りと 感謝の祭りが盛んな地方で
ある。日本人は昔から“お祭り好き”といわれるように,日本各地には
多くの祭りがある。其々が歴史と伝統、そして個性ある 文化として
継承されてきている。
・(民族学者&作家、柳田国男、出典:JIJI)
🔵柳田國男は著書「日本の祭」でお祭りを「祭」と「祭礼」の
二つの言葉で区別している。祭は信仰に基づく宗教的な行為、即ち,
神を祀る神事(儀式)をいい,その祭に外からの見物人が集まり華や
かさを纏うようになったのが祭礼であると論じているが、本稿では
両方の意味を含めて敢えて「祭り」とさせて頂きたい。
柳田は「日本人が仏教の伝来以前より、古く信仰してきた神道を,地
域の人々は,,御社の祭に参加することで体験してきたのであり、祭に
足を運ぶことで神の道を究めることが可能となった。そして, そこに
四季の循環が, その体験を人々の記憶に刻ませるための非常に効果的
な支柱として作用し、また,祭で行われる歌舞音曲は“わざおぎ”と呼
ばれ、神の心を和ませ楽しませるために発生したものであるが,,見物
客にも娯楽を提供するパフォーマンスでもある。」と述べている。
🔵秋祭りの多くは神輿や屋台が地域の人達によって担がれご神殿前
に奉昇されるが,『神輿』は神様の乗物であり人が乗ることは 許さ
れない。車輪はなく人々が 担ぐための棒がついている。神主の先導
で神様が神輿に降臨されるが、不思議なもので急に 神輿に重みが増
すのである。
『屋台』は車輪台があり笛や太鼓を奏でる人々が乗り込むが, 街中を
練り回った後, 宮前からご神殿前までは, 人々が担いで 奉昇するので
ある。祭りは信仰を裏付けられた日本の伝統文化である。神輿や 屋
台にはいずれも刺繍・木彫り・金具や装飾細工・大工仕立て等 職人
の伝統の技が凝縮されており、実に豪華絢爛 そして荘厳で 神聖な美
しさを放っている。
また,祭りでは,村落共同体や地域の人々が相互に協力し,,各々の役割
を果たす事で人々の一体感が 醸成されるのである。しかし地方の過
疎化 少子高齢化、更にコロナ禍の影響で各地の祭りは 存続の危機に
あり「祭りの継承」が村落共同体や地域の喫緊の課題となってい
る。
企業活動における事業承継と同じで、ヒト・モノ・カネがなければ
祭りを継承してゆけない。祭りを観光資源として「まちおこし」
を果たしたとしても, 枯渇しているヒトを どのようにして 維持する
のか?新たな担い手を増やさないことには「祭りは継承」できない
のである。
(出典:JIJI)
■■「晩秋,三木の祭り」
🔵子供の頃、播州の三大祭りの一つ三木市大宮八幡宮秋の例大祭に
参加、屋台にも上がらせてもらったことがある。祭りは, 8台の屋台
が太鼓の音を鳴り響かせ,練り合わせを一斉に披露するのであるが、
「ふとん屋台太鼓]と云われる独特の屋台の練り合わせは勇壮である。
そして宵宮で屋台全てが、いっせいに宮入りを始めるのだが, 陽が落
ち夕闇が広がる中で屋台は豪華絢爛で、且つ, 幻想的な世界を創り出
し一層美しく輝くのである。
祭りのクライマックスは, 屋台の担ぎ手達が太鼓と「よいやさー」
の掛け声に鼓舞されて石段を一段一段登る場面である。
屋台の重みに体勢が崩れそうになりながらも担ぎ手達は
「よいやさー」
「よいやさー」
と何度も声をかけ合い、力を合わせて境内を目指すのであるが,
2トンもある屋台が, 急な石段を登っての宮入りは迫力満点である。
特に大村町屋台の宮入りは,命綱を使わず登るため、大宮八幡宮秋の
例大祭は日本で最も危険な祭りの一つと言われている。
(写真(八幡宮播州三木大宮秋祭り)(出典、XCOM播州三木まつり耳ヨリ情報局)
尚、大宮八幡宮以外でも 岩壺神社などで祭りが執り行われ 三木市内
で30台の屋台が躍動することになるが、やはり,ここ三木市も 祭り
の 担い手不足は深刻である。
■■「祭りの意義」
🔵話は変わるが,三木といえば 誰もが直ぐに「金物の町」を連想する
であろう。また,歴史の史実として 戦国時代の三木合戦も誰もがよく
知るところである。
東播磨の守護職であった別所氏は,三木城を築城,周囲に城下町を形成
し領国の経営にあたっていた。戦国時代 織田と毛利の戦いに巻き込
まれ, 別所長治は毛利方につき織田の先鋒羽柴秀吉と戦うことになる。
秀吉の三木城攻略は兵糧攻め(三木の干殺し)となり、過酷を極めた。
1年10ヶ月の籠城の末,飢えた城兵を助けるため 長治は自刃し,城は
落ちたのである。
『今はただ うらみもあらじ 諸人の 命にかはる 我が身と思えば』
これは長治公辞世の句で、彼の人柄と生き様が垣間見える歌である。
この合戦には、鎌倉北條家時房の系統で 播磨の豪族淡河定範が戦死
している。
彼は別所長治の義理の叔父で, 淡河城の戦いでは羽柴秀長軍を破る武
功を挙げるも衆寡敵せず 淡河城を捨て三木城に入城後に 大村合戦で
討死を遂げる。
智将淡河弾正忠定範は「丸に三ツ鱗」の家紋と[天時不如地利」
『地利不如人和』が縫い込まれた旗印をはためかせていたと伝わる。
『天の時は地の利に如かず、地の利,人の和に如かず』は、孟子の言
葉であり、善政を敷き人心をつかみ民の心を一つにすれば必ず勝利
を得るとでもいう。意味だろうか,現代の企業経営にも十分に通じる
メッセージである。
🔵三木城落城後 ,三木復興のために 秀吉は地子免許を与え,戦乱によ
って流出した商人や職人の帰還を促している。 町復興のために集ま
った大工職人や,その道具を作る鍛治職人が増え三木の町は活気づく。
しかし,復興事業がひと段落すると大工仕事は激減、大工職人たちは
京・大坂へ出稼ぎに行くようになるが、彼らが持参した 大工道具の
性能と品質の良さが京,大坂で評判となり、江戸時代中期には「鍛治
の里」としての三木の地位が確立する。
江戸時代後期には,仲買業者の活躍もあり 三木の金物は, 江戸を始め
各地へ普及、全国ブランドとして大いに発展を遂げる。
更に,秀吉は地子(地税)免許・諸役(労役や物品税など)免除の特
権を認める制札を公布している。三木はこれを拠り所に,以後東播磨
地域の経済の中心として発展してゆく。
延宝5年(1677)の検地で,この地子免許特権に危機が訪れたが
岡村源兵衛と大西与左衛門は羽柴秀吉制札を携え,幕府に直訴し地子
免許特権を認めさせた。
二人は「三木の義民」として顕彰され、今日まで語り継がれている。
この話は奥が深く、別所氏時代から三木城城下に 租税赦免の特典を
与えて保護していたことが、秀吉の立てた制札の文面によって 解読
されている。
更に遡ること鎌倉時代の義民菅原宗賢の伝承が 存在する。農民のた
めに“そうけ池“を掘った鎌倉時代中期の医師であり、旅好きであり、
旅先で旅の僧の姿をした 北條時頼と出会い、旅を共にしたことから
親交を深め、時頼から三木の地の免租の許状を得たと云われている。
そうなると秀吉は,北條時頼の免租の許し継続追認しただけのことに
なるが、少なくとも三木市内では,今も「三木は鎌倉時代から免租地
であった」と信じられている。
🔵近世の三木は、町方(まちかた:商工地域)十ヵ町と地方(じかた:
農村や山村)八ヵ町で構成され、免許地とされた町方十ヵ町は惣町
(自治組織)を形成している。270年に及ぶ江戸時代、三木は初
め84年間が幕府直轄領、残り187年間は大名家八家十藩の所領
となったが、領主の頻繁な交代や、飛び地領支配であった時期が長
く、藩の支配は緩やかであったようだ。
ここ佐用町でも自宅近くの龍山寺で秋の例大祭があった。神輿,屋台
が町内を練り回り宵宮には、龍山神社の石段を登るのだが佐用町も
少子高齢化と過疎化が進んでおり、祭りの担い手が気になったが、
意外と若者達の参加者も多く、特に、高校生が活躍していた。
(撮影)佐用町龍山神社の屋台
🔵私の住む大願寺地区の氏神さま 佐用都比賣(玉津日女命)は,
『播磨國風土記』に登場される神さまで,古代播磨國佐用郡の中心部、
本位伝甲(ほんいでんかぶと)に延喜式内社佐用都比賣神社が鎮座する。
秋の例大祭は,神輿や屋台の練り回しはなく,演奏会など各種イベント、
そして境内や参道に多くの出店が出るだけであった。
昔は相撲興行などもあり遠方から訪れる人も多く,なかなか賑やかで
あったらしい。
(撮影)佐用都比賣神社本殿
■■「祭りの継承」
🔵最後に「祭りの継承」は,日本国全体で取り組まねばならない課題
である。祭りは,現代社会において忘れ去られた 伝統的な信仰生活を
記憶させるとともに,地域社会と繋がり,人の想いや願いに触れ,生きる
喜びや幸せを共有し「日本人とは?」を体感させてくれるのであ
る。
祭りの喪失した都会の若者や地域共同体での参画体験を持たずに都会
に出て行く若者達にも、是非、祭りは体験して頂きたいものである。
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