「21世紀はアジアとの時代」 (Jtiro🔴Jpn) SDGs.Webサイト(Editor: K.Yamada)

●Copyright © 2024.All rights reserved.●Since2008.
  

■羅漢

2022-07-23 | ●北條語録

⬛️⬛️⬛️⬛️⬛️⬛️⬛️⬛️⬛️⬛️羅漢⬛️⬛️⬛️⬛️⬛️⬛️⬛️⬛️⬛️⬛️

北條俊彦
・経営コンサルタント・前 住友電工タイ社長

⬛️⬛️煩悩と悟り

 ⚫️羅漢とは阿羅漢の略称で,煩悩を滅却し悟りをひらいた高僧
ことを意味する。

釈迦は涅槃に入られる直前,16人の高弟達に  “現世において
法を護持し衆生を救済せよ“と言い遺された。そして16人の

弟達(羅漢)は釈迦の教えを守り ,各地に仏法を伝えて行く
ので
ある。

⚫️小乗仏教では羅漢は仏陀の弟子の最高位であり,大乗仏教で
羅漢は菩薩の下にあって衆生の救済がその役割とされている

インドの仏典には常に仏陀に付き従った弟子の数, 或いは仏陀
寂直後の経典編纂に従事した者の数として, しばしば五百の
数字
が記されており、彼らを尊い数の羅漢さま “五百羅漢”として
日本や中国で崇拝され、広く供養の対象として信仰されてきた。
因みに“供養とはサンスクリット語のプージャーの漢訳で仏や
菩薩
などに香や華,燈明,お供え物を真心もって捧げることである。


⚫️誰かに似た顔が必ずあると言われる五百羅漢像,
その表情には人
の喜怒哀楽など人の心の有りようが象徴的に表現
されているように
思える。従って,その表情は 羅漢像を見る人の
心のありよう次第で変
わってくるのである。
今日まで生きてきて己自身に恥じることはなかったか、五百羅漢
を巡り己が心を羅漢の顔に映し出してみるのも良いかもしれな
い。

私の好きな五百羅漢は,加西市北条寺と 京都深草石峰寺であるが,
漢像の作風は全く好対照である。
⚫️ 丸みを帯びたユーモラスな作風の[石峰寺五百羅漢像]は、
あの伊藤
若冲のプロデユースである。伊藤若冲は禅に興味を持ち
30代後半
に参禅し「若冲居士」の号を得ている。
若冲は仏画を良くし「動植
綵絵」30幅と共に「釈迦三尊像」,
即ち「釈迦如来像」[文殊菩
薩像」[普賢菩薩像」の3幅を相国寺
に寄進した。


 (●大本山相国寺、金閣寺、銀閣寺の本山でもある)
⚫️相国寺が明治時代の蛮行廃仏毀釈で疲弊していた際に「動植
綵絵」30幅を皇室に献上し相国寺には釈迦三尊像だけが残った
のだが、皇室の御物となったからこそ 若冲の最高傑作である
動植
綵絵」が散逸せずに昔のままの状態を保つことができた
のだろう。

 その後、若冲は黄檗山へ入山し石峰寺七代住職密山修大和尚と
会った後, 住職の協賛を得て五百羅漢像のプロデュースを始めた。

諸説あるが、完成したのは天明八年の京都大火以後と云われて
いる。若冲はこの京都大火災において家・財産全てを失っている。
 
⚫️五百羅漢完成当初は千体以上あったと云われているが、現在
では
五百数十体のみしか残っていないが,釈迦の“誕生”から“托鉢”
説法“、”涅槃“、”賽の河原“などの各場面を再現したものとなっ
ている。

   
                            ●石峰寺(京都市深草、伏見)
その後,75歳となった若冲は石峰寺に庵を結び作画活動を行い、
寛政十二年85歳で没し寺内に埋葬(土葬)された。
毎年命日
の9月10日には若冲忌の法要が営まれ, 若冲作画の掛
け軸
が一般公開されているようだ。

石峰寺へは京阪電車深草駅から徒歩10分程度の距離、学生時代
に茶道(裏千家)の稽古で深草駅近くに通っていたことから、唐
様朱色
の特徴的な山門の石峰寺を幾度か参拝する機会を得たので
ある。

     
⬛️⬛️北条寺
⚫️北条寺は天台宗北栄山羅漢寺と云い、北条石仏(五百羅漢像)
459体が鎮座している。作者不明だが円空仏にも通じる素朴で
個性的な作風である。慶長年間(1596年ー1615年)製作と云わ
れている。どちらかというと洗練された石峰寺より素朴な羅漢寺

の羅漢像の方が私は好きである。


技巧的には決して高度なものではないが、素朴で個性的な羅漢像
である。また、どれ一つとっても同じ表情がないのであるが、
“親が見たけりゃ北条の西の五百羅漢堂にござれ“と昔から云われ、
大きさや表情の異なる多くの羅漢像の中に,必ず,親や知人,または
自分に似た顔があると云われている。
かく云う私は、偶然にもその誰かに似た顔をすぐに見つけること
ができた。
是非,心穏やかに五百羅漢を逍遥され, 懐かしい顔探し
をしてみるの
もよろしかろう。


 
⚫️北条寺へのアクセスは,JR加古川駅からJR加古川線西脇市行き
に乗車、粟生駅
で北条鉄道北条町行きに乗り換え北条町駅へ。
北条町駅から
徒歩15分圏内である
以前, 北条鉄道では鈴虫列車に乗車
する機会に恵まれたが、鈴虫
の音を聴きながらどこか懐かしさの
残るローカル線の鉄旅を楽し
んだ。

また,鉄道好きの方,既にご存知だろうが北条鉄道の鉄印は2種類
あるそうで,鉄印帳の旅も是非,楽しんで頂きたい。
 

⚫️以前、拙稿「致良知」で渡邊崋山を紹介させて頂いたが,渡邊
崋山も
日本を代表する画家である。伊藤若冲と画風は違い,崋山の
作品には
国宝鷹見泉石像をはじめ肖像画が多い。
人の表情をリアルに捉えた作品からは政治家崋山の観察眼の鋭さ
が窺
える。崋山の師である松崎慊堂と佐藤一斎の肖像画は,それぞ
れ表情
が対照的である。蛮社の獄で窮地の崋山に対する両師の行
動を知った
上で崋山の描いた肖像画を鑑賞されると更に興味深い
かもしれない。


⬛️⬛️「八勿の訓渡辺崋山・現代ビジネス訓
⚫️ここでは政治家である崋山の「八勿(はちぶつ)の訓」を
紹介しておきたい。

崋山は田原藩家老として何よりも藩民の安寧を最優先とし,藩政
改革
に尽力したのである。その効果が現れたのが 天保の大飢饉
においてである。

 天保四年(1833年)の大雨による洪水や冷害による 大凶作
に始まり,
天保六年から八年に最大規模化した「天保の大飢饉」
は,田原藩にも
波及した。全国で多くの餓死者が出た為, 天保四年
から八年の間に
人口が125万人も減少している。 如何に悲惨であ
ったかが窺い知れる。

 

                     (渡邊崋山,作「天保の大飢饉」)
⚫️これは渡邊崋山の“天保の大飢饉”の絵であるが、田原藩では
飢饉対策の義倉「報民倉」の効果もあり 天保の大飢饉を
一人
の餓死者も出すことなく大飢饉を乗り切った。

「報民倉」とは崋山が佐藤信淵の思想を基に「凶荒心得書」を
著し
藩主に提出したもので、役人の綱紀粛正と倹約、民衆の救済
を最優
先すべきだと説き認められた。結果、救済対策として実現
したものである。

 
⚫️ここで紹介する八勿の訓は天保の大飢饉の際,崋山病床
のため
信頼が厚かった用人真木重郎兵衛定前に藩御用金調達のた
め、
大坂商人との交渉にあたらせたが、その交渉の心構えとして
崋山が
真木に書状として書き送ったものである。
住友電工時代,「 ビジネスの
基本」として私の貴重な行動指針でも
あった。
以下、簡単な説明を付けて“八勿の訓”をご紹介する。
1)面後の情ニ常を忘スル勿レ
     交渉に臨んでは常に平常心を保たねばならない。
2)眼前の繰回シに百年の計を忘スル勿レ
   長期的視点をもって現状を冷静に分析し、戦略と戦術を立て
   交渉に当たらねばならない。

3)前面の功を期シテ後面の費を忘スル勿レ
   結果を出すためにはそれなりの犠牲を伴うものであり、
   目先のことに拘り、将来に禍根を残してはいけない。
4)大功ハ緩にあり、機会ハ急にありという事を忘スル勿レ
   大きな成功を求めるに急いではならないが、チャンスは急に
   やってくる。
5)面ハ冷ナルを欲シ背ハ暖を欲スルト云ヲ忘スル勿レ
   冷徹な表情と心のうちには暖かなものを保つべし。
6)挙動を慎ミ其恒ヲ見ラルル勿レ
   立ち居振舞いは慎み、本心を見透かされてはならない。
7)人を欺かんとスル者ハ人ニ欺ムカル不欺ハ即不欺己といふ事
  を忘スル勿レ

    自分を欺かず、また人を欺むいてはいけない。
8)基立テ物従フ基ハ心の実と云ふ事を忘スル勿レ
   基本が正しければ,人は皆これに従う。交渉の基本は実であり、
      誠である。


⚫️また, 崋山は同時期に商人のあり方についても 「商人八訓
として著している。

敢えて解説の必要は無いと思うが,「商売の心得」についても紹介
しておきたい。

1)  先ず朝は、召使いより早く起きよ
2)  十両の客より百文の客を大切にせよ
3)  買い手が気に入らず,返しに来たならば,売る時より丁寧にせよ
4)  繁盛するに従って、益々倹約せよ
5)  小遣いは一文より記せ
6)  開店のときを忘れるな
7)  同商売が近所にできたら、懇意を厚くして互いに勤めよ
8)  出店を開いたら、三ヵ年は食料を送れ
     清貧の中で至誠を貫いた異才の治政家渡邊崋山の慧眼には,ただ
     ただ
敬服するばかりである。
                         

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ■日本サッカーの源流 | トップ | ■東京五輪回顧 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿