⬛️⬛️⬛️⬛️⬛️⬛️⬛️⬛️⬛️⬛️羅漢⬛️⬛️⬛️⬛️⬛️⬛️⬛️⬛️⬛️⬛️
北條俊彦
・経営コンサルタント・前 住友電工タイ社長
⬛️⬛️「煩悩と悟り」
⚫️羅漢とは阿羅漢の略称で,煩悩を滅却し悟りをひらいた高僧の
ことを意味する。
釈迦は涅槃に入られる直前,16人の高弟達に “現世において仏
法を護持し衆生を救済せよ“と言い遺された。そして16人の高
弟達(羅漢)は釈迦の教えを守り ,各地に仏法を伝えて行くので
ある。
⚫️小乗仏教では羅漢は仏陀の弟子の最高位であり,大乗仏教では
羅漢は菩薩の下にあって衆生の救済がその役割とされている。
インドの仏典には常に仏陀に付き従った弟子の数, 或いは仏陀入
寂直後の経典編纂に従事した者の数として, しばしば五百の数字
が記されており、彼らを尊い数の羅漢さま “五百羅漢”として
日本や中国で崇拝され、広く供養の対象として信仰されてきた。
因みに“供養”とはサンスクリット語のプージャーの漢訳で仏や
菩薩などに香や華,燈明,お供え物を真心もって捧げることである。
⚫️誰かに似た顔が必ずあると言われる五百羅漢像,
その表情には人の喜怒哀楽など人の心の有りようが象徴的に表現
されているように思える。従って,その表情は 羅漢像を見る人の
心のありよう次第で変わってくるのである。
今日まで生きてきて己自身に恥じることはなかったか、五百羅漢
像を巡り己が心を羅漢の顔に映し出してみるのも良いかもしれな
い。
私の好きな五百羅漢は,加西市北条寺と 京都深草石峰寺であるが,
羅漢像の作風は全く好対照である。
⚫️ 丸みを帯びたユーモラスな作風の[石峰寺五百羅漢像]は、
あの伊藤若冲のプロデユースである。伊藤若冲は禅に興味を持ち
30代後半に参禅し「若冲居士」の号を得ている。
若冲は仏画を良くし「動植綵絵」30幅と共に「釈迦三尊像」,
即ち「釈迦如来像」[文殊菩薩像」[普賢菩薩像」の3幅を相国寺
に寄進した。
(●大本山相国寺、金閣寺、銀閣寺の本山でもある)
⚫️相国寺が明治時代の蛮行廃仏毀釈で疲弊していた際に「動植
綵絵」30幅を皇室に献上し相国寺には釈迦三尊像だけが残った
のだが、皇室の御物となったからこそ 若冲の最高傑作である
「動植綵絵」が散逸せずに昔のままの状態を保つことができた
のだろう。
その後、若冲は黄檗山へ入山し石峰寺七代住職密山修大和尚と出
会った後, 住職の協賛を得て五百羅漢像のプロデュースを始めた。
諸説あるが、完成したのは天明八年の京都大火以後と云われて
いる。若冲はこの京都大火災において家・財産全てを失っている。
⚫️五百羅漢完成当初は千体以上あったと云われているが、現在
では五百数十体のみしか残っていないが,釈迦の“誕生”から“托鉢”
説法“、”涅槃“、”賽の河原“などの各場面を再現したものとなっ
ている。
●石峰寺(京都市深草、伏見)
その後,75歳となった若冲は石峰寺に庵を結び作画活動を行い、
寛政十二年85歳で没し寺内に埋葬(土葬)された。
毎年命日の9月10日には若冲忌の法要が営まれ, 若冲作画の掛
け軸が一般公開されているようだ。
石峰寺へは京阪電車深草駅から徒歩10分程度の距離、学生時代
に茶道(裏千家)の稽古で深草駅近くに通っていたことから、唐
様朱色の特徴的な山門の石峰寺を幾度か参拝する機会を得たので
ある。
⬛️⬛️「北条寺」
⚫️北条寺は天台宗北栄山羅漢寺と云い、北条石仏(五百羅漢像)
459体が鎮座している。作者不明だが円空仏にも通じる素朴で
個性的な作風である。慶長年間(1596年ー1615年)製作と云わ
れている。どちらかというと洗練された石峰寺より素朴な羅漢寺
の羅漢像の方が私は好きである。
技巧的には決して高度なものではないが、素朴で個性的な羅漢像
である。また、どれ一つとっても同じ表情がないのであるが、
“親が見たけりゃ北条の西の五百羅漢堂にござれ“と昔から云われ、
大きさや表情の異なる多くの羅漢像の中に,必ず,親や知人,または
自分に似た顔があると云われている。
かく云う私は、偶然にもその誰かに似た顔をすぐに見つけること
ができた。是非,心穏やかに五百羅漢を逍遥され, 懐かしい顔探し
をしてみるのもよろしかろう。
⚫️北条寺へのアクセスは,JR加古川駅からJR加古川線西脇市行き
に乗車、粟生駅で北条鉄道北条町行きに乗り換え北条町駅へ。
北条町駅から徒歩15分圏内である。
以前, 北条鉄道では鈴虫列車に乗車する機会に恵まれたが、鈴虫
の音を聴きながらどこか懐かしさの残るローカル線の鉄旅を楽し
んだ。
また,鉄道好きの方,既にご存知だろうが北条鉄道の鉄印は2種類
あるそうで,鉄印帳の旅も是非,楽しんで頂きたい。
⚫️以前、拙稿「致良知」で渡邊崋山を紹介させて頂いたが,渡邊
崋山も日本を代表する画家である。伊藤若冲と画風は違い,崋山の
作品には国宝鷹見泉石像をはじめ肖像画が多い。
人の表情をリアルに捉えた作品からは政治家崋山の観察眼の鋭さ
が窺える。崋山の師である松崎慊堂と佐藤一斎の肖像画は,それぞ
れ表情が対照的である。蛮社の獄で窮地の崋山に対する両師の行
動を知った上で崋山の描いた肖像画を鑑賞されると更に興味深い
かもしれない。
⬛️⬛️「八勿の訓」渡辺崋山・現代ビジネス訓)
⚫️ここでは政治家である崋山の「八勿(はちぶつ)の訓」を
紹介しておきたい。
崋山は田原藩家老として何よりも藩民の安寧を最優先とし,藩政
改革に尽力したのである。その効果が現れたのが 天保の大飢饉
においてである。
天保四年(1833年)の大雨による洪水や冷害による 大凶作
に始まり, 天保六年から八年に最大規模化した「天保の大飢饉」
は,田原藩にも波及した。全国で多くの餓死者が出た為, 天保四年
から八年の間に人口が125万人も減少している。 如何に悲惨であ
ったかが窺い知れる。
(渡邊崋山,作「天保の大飢饉」)
⚫️これは渡邊崋山の“天保の大飢饉”の絵であるが、田原藩では
飢饉対策の義倉「報民倉」の効果もあり 天保の大飢饉を一人
の餓死者も出すことなく大飢饉を乗り切った。
「報民倉」とは崋山が佐藤信淵の思想を基に「凶荒心得書」を
著し藩主に提出したもので、役人の綱紀粛正と倹約、民衆の救済
を最優先すべきだと説き認められた。結果、救済対策として実現
したものである。
⚫️ここで紹介する「八勿の訓」は天保の大飢饉の際,崋山病床
のため信頼が厚かった用人真木重郎兵衛定前に藩御用金調達のた
め、大坂商人との交渉にあたらせたが、その交渉の心構えとして
崋山が真木に書状として書き送ったものである。
住友電工時代,「 ビジネスの基本」として私の貴重な行動指針でも
あった。以下、簡単な説明を付けて“八勿の訓”をご紹介する。
1)面後の情ニ常を忘スル勿レ
交渉に臨んでは常に平常心を保たねばならない。
2)眼前の繰回シに百年の計を忘スル勿レ
長期的視点をもって現状を冷静に分析し、戦略と戦術を立て
交渉に当たらねばならない。
3)前面の功を期シテ後面の費を忘スル勿レ
結果を出すためにはそれなりの犠牲を伴うものであり、
目先のことに拘り、将来に禍根を残してはいけない。
4)大功ハ緩にあり、機会ハ急にありという事を忘スル勿レ
大きな成功を求めるに急いではならないが、チャンスは急に
やってくる。
5)面ハ冷ナルを欲シ背ハ暖を欲スルト云ヲ忘スル勿レ
冷徹な表情と心のうちには暖かなものを保つべし。
6)挙動を慎ミ其恒ヲ見ラルル勿レ
立ち居振舞いは慎み、本心を見透かされてはならない。
7)人を欺かんとスル者ハ人ニ欺ムカル不欺ハ即不欺己といふ事
を忘スル勿レ
自分を欺かず、また人を欺むいてはいけない。
8)基立テ物従フ基ハ心の実と云ふ事を忘スル勿レ
基本が正しければ,人は皆これに従う。交渉の基本は実であり、
誠である。
⚫️また, 崋山は同時期に商人のあり方についても 「商人八訓」
として著している。
敢えて解説の必要は無いと思うが,「商売の心得」についても紹介
しておきたい。
1) 先ず朝は、召使いより早く起きよ
2) 十両の客より百文の客を大切にせよ
3) 買い手が気に入らず,返しに来たならば,売る時より丁寧にせよ
4) 繁盛するに従って、益々倹約せよ
5) 小遣いは一文より記せ
6) 開店のときを忘れるな
7) 同商売が近所にできたら、懇意を厚くして互いに勤めよ
8) 出店を開いたら、三ヵ年は食料を送れ
清貧の中で至誠を貫いた異才の治政家渡邊崋山の慧眼には,ただ
ただ敬服するばかりである。
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