4月27日発表された、「板門店宣言」は「南と北は、停戦協定締結65年になる今年中に、終戦を宣言して停戦協定を平和協定に転換し恒久的で堅固な平和体制構築のための南北米3者または南北米中4者会談の開催を積極的に推進していくことにした」と述べています。
ここには、両首脳の深い、強い決断が込められていると思います。 このことが実現した時、北東アジアの安全保障環境は平和に向って激変するのではないかと思います。
ここで、1950年から53年に及んだ朝鮮戦争について考えてみたいと思います。
この戦争を誰が、何のために起こしたのか。 その影響は日本やアジアにどのような影響を及ぼしたのか。 私は、この疑問に答える研究成果として、不破哲三氏の「スターリン秘史ー第6巻」を紹介したいと思います。
同書には、次のような記述があります。
「朝鮮戦争を論じた文献の中には、旧ソ連の内部文書をはじめ、多くの歴史文書を根拠に朝鮮戦争の歴史を精細に後づけながら、この戦争をひきおこした主犯は誰か、という問題では、金日成がスターリンの支持を取りつけ、毛沢東を説得したのだと、金日成主犯説をとるものもありますが、スターリン書簡(注:スターリンがチェコスロバキアの大統領ゴトワルトの質問に答えた書簡ー1950年8月27日付、2008年6月公表)は、この点でも、明確な回答を与えています。 1949年~50年当時の金日成が、スターリンと毛沢東を主導的に動かすような力を持つといったことは、もともとありえない想定でした」(同書 226頁)
スターリンが起こした朝鮮戦争は、1953年7月に停戦になりました。 不破氏は、スターリンの「アジア第2戦線」戦略とその発動の影響について、5点にわたって述べています。(同書269~272頁)
その中の日本についての項を紹介します。
「最後に日本です。 朝鮮戦争は、アメリカが日本の全土を極東における戦争と侵略の基地とし、警察予備隊(-保安隊ー自衛隊)の名で日本の再軍備に道を開く上で、絶好の情勢をつくりだしました。 そして、スターリンの干渉による日本共産党の徳田・野坂分派への軍事方針の押しつけは、日本共産党に深刻な政治的打撃を加えただけでなく、講和を前にした重大な時期にアメリカ占領軍に日本を事実上の戒厳状態におく口実を与え、民主・平和運動を無力化させることを容易にさせました」
「事実、講和条約と日米安保条約が締結された1951年には、首都東京では、『平和』と名のつく集会は”盆踊り”さえ禁止されるという戦時さながらの禁圧体制が敷かれました」
「こうして、アメリカは、日本の反動支配勢力の協力のもと、自分が勝手に描いた設計図どおりの講和条約と日米安保条約を、国民的規模の反対運動に直面する恐れなしに、強行することができたのでした」
「スターリンは、日本共産党にたいするコミンフォルムの論評で、日本を侵略と戦争の根拠地にしようとするアメリカ帝国主義の策謀を痛烈に批判し、公正な講和と占領軍撤退のための闘争を呼びかけ、その立場の不十分なことを日本共産党に対する干渉攻撃の口実としました」
「しかし、現実のことの経過が示したものは、スターリンによる朝鮮戦争の発動および日本の運動への干渉攻撃の強行こそが、アメリカ帝国主義のこの策動を助ける最大の犯罪的役割を果たした、ということでした」
「しかも、スターリンが、日本の運動に押しつけようとした『軍事方針』なるものは、机の上で朝鮮戦争の”後方撹乱”をとなえただけのもので、軍事的にも無意味な”騒ぎ”を起こしただけに終わりました」
そして、不破氏は、スターリンの「第2戦線構想」とその発動が、世界とアジアにはかりしれない損害をひきおこしたことを、厳しく指摘した上で、次のように述べています。
「しかし、この構想の一環として強行された日本共産党への干渉攻撃が、日本の運動のなかに、スターリンの覇権主義、専制主義に対する徹底した批判者を生む転機になったことは、歴史の弁証法というべきでしょう」
27日の南北首脳会談と「板門店宣言」を受けて、志位和夫委員長は次の談話を発表しました。 (「しんぶん赤旗」28日付)その一部を紹介します。
「『板門店宣言』は、朝鮮半島の非核化と北東アジアの平和体制の構築に向けた大きな前進である。 日本共産党はそれを心から歓迎する」
「今回の合意が履行され、73年間に及ぶ南北分断と対立が解消に向い、南北の人々が平和と繁栄のなかで暮らせるようになり、統一にむかうことを心より願う」