宮応かつゆきの日本改革ブログ

●日本共産党
総選挙で市民と野党の共闘で政権交代を、共産党の躍進をめざします。

「自衛隊輸送機に余力」 照屋寛徳衆院議員(社民党)への政府答弁書で明らかにーオスプレイ熊本派遣

2016年04月30日 | 基地・オスプレイ

 沖縄タイムス4月29日(金)5時1分配信ー「YAHOO!ニュース JAPAN」より。

 【東京】 熊本地震でMV22オスプレイが物資を輸送した件で、政府は28日、全国に自衛隊の輸送機など約310機あるが、オスプレイが派遣される前に被災地で災害活動に携わっていたのは74機だったとする答弁書を閣議決定した。 照屋寛徳衆院議員(社民党)の質問主意書に答えた。

 照屋氏は「自衛隊保有の輸送体制に余剰があったことがわかった。 オスプレイの安全性をアピールするパフォーマンスで、災害の政治利用だ」と批判した。 

 「答弁書によると、3月末時点で、九州に所在する自衛隊の輸送機と陸自の多用途機は回転翼機が約40機あり、九州以外では固定翼機は40機、回転翼機は約230機あった。 オスプレイが初めて災害支援に参加した前日の17日時点で派遣されたのは、九州所在の回転翼23機で、九州以外は固定翼9機、回転翼42機だった。 修理・点検中や、ほかの任務に従事する航空機以外の運用可能な自衛隊機は最大限活用していたとした。 オスプレイによる自衛隊員の輸送は行なわなかったという。」

 「米軍の支援は24日に終了した。 政府は『現時点でオスプレイを含む米軍航空機の追加派遣要請を改めて行う予定はない』としている」

 


「オスプレイ『日本が要請』」、なぜCH-47J、JA大型輸送へりを災害救援活動に派遣しないのか

2016年04月20日 | 基地・オスプレイ

 「しんぶん赤旗」20日付は「オスプレイ『日本が要請』」の見出しで、次のように報じました。

 「米海兵隊は18日付報道発表で、沖縄・普天間基地所属の垂直離着陸機MV22オスプレイを18日から熊本地震の被災者救援に派遣したのは『日本政府の要請』に基づくものだったことを明らかにしました」

 「また、米軍準機関紙『星条旗』18日付電子版は、日本政府が16日、米国務省に震災支援を要請したと報じています。 政府がオスプレイなど米軍の支援に言及したのは翌日の17日でした」

 4月19日付「読売」はオスプレイの基本性能を退役した、CH46ヘリと比較しています。 最大速度は約2倍の時速520㎞、輸送兵員2倍の24人、搭載量約2.5倍の5700㎏、航続距離約6倍3900㎞と報じています。

 日本の自衛隊が保有するCH47JAは、巡航速度約260㎞、航続距離約1000㎞、有効搭載量11.2t、乗員約60人の性能を持っています。 

 オプレイに頼る前に、必要な災害救援活動を進める上で、真っ先に検討されるべきではないでしょうか。 御嶽山の噴火災害の救援、捜索活動にも動員されてた機種です。 

 そこで、私が特に考えさせられることは、次の点です。  

 CH-47JAには、海外への派遣を考えて防塵フィルターなどが装備できることです。

 この「防塵フィルター」「EAPS 通称(イップス)」は、エンジン吸収口で吸いこんだ異物を遠心分離等の方法で除去し、クリーンな空気のみをエンジンに送り込む装置です。 

 「この装置があると砂漠などの微小サイズの異物が多い地域での活動でも、ローターが巻き上げた砂などをエンジンが吸い込んでしまう確立を下げることができます」(「徹底比較!自衛隊CH-47チヌーク(軍事)-proripateの日々」より)

 一方、オスプレイの新「防塵フィルター」は早くて2017年から装着されると言われています。

 昨年5月のオスプレイのハワイでの墜落事故を被災地で絶対に繰りかえさせるわけにはいきません。


「九州地方地震」 日本共産党”政府に万全の措置、川内原発の停止”を求める

2016年04月17日 | 大震災・原発

 熊本・大分両県に及ぶ大地震により亡くなられた方に心からお悔やみを申し上げます。 また、負傷されたり、家屋を失った方々に心からお見舞い申し上げます。

 日本共産党国会議員団「九州地方地震対策本部」は16日、政府に緊急申し入れを行いました。

 第1に、政府として、関係自治体とよく連携して、救命・救援に万全の措置をとる と、被災者への支援、2次被害や被害の拡大防止に全力を集中することを求めています。

 第2に、川内原発をただちに停止することです。

 九州地方の大震災に関する報道では、「原発に関する報道」が少ないように思います。

 日本共産党の「緊急申し入れ」では、次のように指摘しています。

 「震源域が九州横断的に拡大しており、この地震が今後どのように広がるかは予測がつかない。 新幹線や高速道路が不通であり、万が一事故が起きた場合に、避難に重大な支障がうまれることはあきらかである」

 「電力需要からみても、川内原発を動かし続ける必要はない」「少なくとも、稼働継続の是非について、政府として英知を結集して真剣な検討を行い、国民・住民の不安にこたえるべきである」

 「朝日」17日付は、全国唯一稼働している川内原発1・2号機について、「政府は運転継続を容認する方針を示した」と報じています。

 日本共産党鹿児島県員会は16日、知事と九州電力に、川内原発の運転停止を申し入れました。

 申し入れ内容は、▽直ちに運転停止し、地震による故障がないか点検すること ▽予震が続いている間は運転を再開しないこと ▽地震国日本において安全な原発はありえない、廃炉を決断することーーなどです。

 鹿児島県内では、14日の地震発生後、震度5 ~ 1の余震が数十回発生しています。(16日現在)

  17日付「朝日」、川内原発周辺の断層帯、火山の位置を地図で報道しています。 玄海原発と比較でもその環境の大きな違いがわかります。

 川内原発の稼働停止の決断を政府に強く求めたいと思います


”UR道路工事責任者らに約100万円の接待”建設業者側、 甘利氏疑惑が新たな局面に

2016年04月14日 | 政治とカネ

 今日発売の「週刊文春」(4月21日号)は、「”甘利疑獄”一色武氏が初めて明かす『URの秘密爆弾』」の見出しで新たな”事実”を報道しています。

 昨日のテレビや今日の新聞は、「UR2職員を複数回接待 甘利氏側に現金の業者」(「朝日」)「UR幹部、接待受ける 甘利氏に金銭提供の業者から」(「しんぶん赤旗」)等と大きく報道しました。

 「週刊文春」は、接待の内容について、一色氏の証言として次のように報じています。

 「特に、道路工事責任者だったA氏とは頻繁に会っていました。~ 支払は常に私で、一晩で10万円以上支払う日もあった」 「領収書やメモなど証拠が残っているだけでも、およそ100万円を2人の接待に使っています」

 A氏はどんな役割を果たしていたのでしょうか。 

 同誌は、一色氏の証言として、次のように報じています。

 「当時、道路建設をめぐる薩摩とURの補償交渉は難航していました。 清島氏に『何とかしていただけないか』と相談したところ、『私が間に入りましょう』と言って、URに内容証明を送ることを提案してくれたのです」

 「その提案通り、薩摩興業は5月20日、内容証明をUR側に送付。 さらに6月7日、清島氏は甘利事務所のベテラン秘書のM氏をUR本社に向かわせた。 すると約半月後、一色氏に『補償額のことで話し合いをしましょう』と連絡してきたのA氏だった」

 「A氏は『(URの)弁護士は闘おうと思えば闘えると言っているが、そんなバカなことをやっていたら、工事が進まない』と言っていました」

 「小誌の既報の通り、当初は1億8千万円だった補償額は、交渉の場で2億円なり、最終的に2億2千万円まで増額された。 13年8月20日、振り込まれた補償金の一部から一色氏は5百万円を口利きのお礼として清島氏に手渡したのだった」

 同誌は、4月10日のA氏とのインタビュー記事も掲載しています。

 「一色から100万円近く接待を受けている」

 「はい・・・・。すべて工事を進めるためにやったことでした。 そのために一色さんとお付き合いしていた。 フィリピンパブには7回行きました。 断れなかったんです。 まずいなと思いましたが、一色さんが黙ってくれていると思って・・・・。 間違った選択をしてしまいました。 ただ、このまま続けるのは良くないと思って、昨年12月に80万円、今年1月に10万円返しました」

 「一色氏にUR内部の情報を流していたのか」

 「工事を進めるためには本音の話をしましょう、というつまりでした。 『工事を進めれば、ひび割れも進行するので、その時にはお金を払います」『(コンクリートが)全損になれば、1千万円単位になります』といった話はしました。 ただ想」定の範囲内(の額)です」

 「1億8千万円が2億2千万円になった経緯は」

 「まだ概算額なので、ブレ幅があったんです。 2億円くらいと考えていて、ブレ幅の下(1億8千万円)を言いました。 (2億2千万円は)震災後、工賃などが高くなり、それを足し算した額。 本当に急いで工事をやっていて、建物の一部を残したまま再配置をするなど複雑な動きをしているので、説明が難しいのですが・・・・

 

 


甘利氏疑惑兵器事件に、口利きあっせん利得明白。 甘利氏 「道半ばで倒れることは出来ない」と決意

2016年04月11日 | 政治とカネ

 東京地検特捜部が8日、都市再生機構(UR)などを家宅捜索し、甘利氏疑惑は刑事事件に発展しました。 「しんぶん赤旗」は新たな事実などを示し、疑惑の徹底解明を訴えています。

 甘利氏の疑惑をめぐっては、弁護士や大学教授などでつくる2つの団体が東京地検に告発しています。 3月に告発したのは法律家団体「社会文化法律センター」の弁護士です。 今月8日には、市民団体「政治資金オンブズマン」の上脇博之共同代表(神戸学院大教授)らは、甘利氏と元秘書ら3人について、あっせん利得処罰法違反や政治資金規正法違反の疑いで東京地検に告発状を送付しました。

 「しんぶん赤旗」は、10日付、特集記事で、「口利きあっせん利得明白」と踏み込んだ記事を掲載しました。

 「甘利氏の大臣辞任記者会見(1月)や関係者の証言などからも、甘利事務所が口利きを行ったことは明白です。 建設会社『薩摩興業』は道路工事をめぐってURと土地トラブルを抱えていました。 トラブルの一つは、2013年8月にURが約2億2000万円の補償額を払うことで解決しました」

 「『週刊文春』によると、薩摩興業の総務担当者、一色武氏の相談を受けた当時の公設第1秘書が『私が間に入ってシャンシャンしましょう』と請け負ったといいます。 相談を受けて3カ月後に決着」 

 「一色氏は『決着が付いたお礼として、550万円を大臣室などで甘利氏本人らに渡しています。 さらに別のトラブル解決のために一色氏は甘利氏側に少なくとも約1千万円もの資金を提供しています」

 「資金提供を受けた甘利事務所の言動は、明らかな口利き行為そのものでした。 例えば、URに圧力をかける様子が記録されていました。 15年10月の面談では、元秘書が『少しイロを付けてでも地区外に出て行ってもらう方が良いのでは。 このままでは同じことが繰り変えされるだけだ』と提案しています。 明らかに補償額のつり上げを意図したものです」

 「税理士の浦野広明立正大学法学部客員教授は『URの補償額が上がったのをみれば、甘利事務所の口利きの効果は明らかで、あっせん利得処罰法違反にあたる。 甘利氏が秘書の責任で逃れることは許されず、安倍首相の任命責任も問われる』と指摘します」

 「しんぶん赤旗」が新たに明らかにした事実は、薩摩興業へのURの最初の補償です。 同紙は、「問題の土地は1970年に道路用地として千葉県が買収。 しかしその周辺の土地を借りた薩摩興業が、道路用地を不法占拠して操業していました」

 「URは同ニュータウン事業の期末(2014年3月)が迫った11年9月ごろから同社と交渉を始め、12年5月に道路予定地上の資材などの移転補償1600万円の支払い契約を交わします。 しかし、薩摩興業はさらに補償を求め、13年5月に甘利事務所に口利きを依頼」したとしています。

 こうした補償がなぜ行われたのか。 疑惑は深まるばかりです。

 甘利氏は、3月支援者などに「ご報告」なる文書を配布しています。 その中では、「私自身につきましては既に記者会見で説明している通りであり、あっせん利得処罰法に当たるような事実は全くありません。 その点はご安心を頂きたいと存じます」

 「また、元秘書らのUR都市再生機構に対する接触についてはすでに同機構の面談メモが民主党に開示されたと聞いておりますが、この中には特に同法に抵触するような行為があったとの報道は聞いておりません」と疑惑を強く否定しています。

 そして、「『確かな日本を次の世代の渡したい』それが私の政治家としての天命と信じ、ひたすら邁進してきました。 ここで、道半ばで倒れることはできないのです」と「決意」を表明しています。

 

 

 

 


戦前の日本共産党の選挙活動ー1928年最初の総選挙で労農党から山本宣治ら2名当選

2016年04月09日 | 綱領関連

 日本共産党綱領(2004年1月17日採択)の第1章「戦前の日本社会と日本共産党」には戦前の党の選挙活動についての記述はありませんが、天皇が全権限を握る専制政治の下で非合法活動を余儀なくされた日本共産党が選挙戦を堂々とたたかったことはよく知られていることです。

 こうしたたたかいがなぜ出来たのか、改めて、多数者革命論の立場から研究され、今日の活動にも生かしたいと思っています。

 「日本共産党の80年」には、次のような記述があります。

 「28年2月、党は、普通選挙法による最初の総選挙をむかえました。 総選挙にあたり、党は、君主制の廃止、民主共和制の樹立、18歳以上の男女の普通選挙権、言論・出版・結社の自由、8時間労働制、大土地所有の没収、帝国主義戦争反対、植民地の独立などをよびかける『政綱』をまとめました」(同書33頁)

 「そして、『赤旗』やビラで党の政策をひろく訴える活動を展開しました。 また、地方政治の分野では、任命制だった知事を公選制にかえ、地方自治を保障するよう要求しました」(同前)

 「党は、この選挙で11人の党員を労働農民党(労農党)から立候補させました。 天皇制政府は、内務省、警察などを動員したはげしい選挙干渉を無産政党に集中しましたが、無産政党は、約49万票(得票率4・7%)を獲得し、8人の議員を当選させました」(同前)

 「労農党は19万票と無産政党では最大の得票をえて、山本宣治(京都2区)ら2名を議会におくりました。 政友会は217議席、民政党(27年6月憲政会と政友会が合同)が216議席と両党で衆議院の90%をこえる圧倒的多数をしまました」(同前)

 また、同書には、「天皇制政府は、29年3月5日、前年に緊急勅令で死刑法に改悪した治安維持法の事後承認を衆議院で強行し、これに反対してたたかった旧労農党の山本良宣治は、その夜、右翼テロリストによって刺殺されました。 党は、山本の活動をたたえ、日本共産党員の資格をおくりました」(36頁)と記述されています。

 なを、この総選挙の有権者は、25歳以上の全ての男子でした。

 党綱領の冒頭部分には、党創立の背景が簡単に適格に記載されています。

 「日本共産党は、わが国の進歩と変革の伝統を受けつぎ、日本と世界の人民の解放闘争の高まりのなか、1922年7月15日、科学的社会主義を理論的な基礎とする正当として、創立された」

 この記述に関わって、私が注目させられたのは、不破氏の著書「日本共産党史を語る」(上)の次ぎの部分です。

 〔比較的健全だった時期〕(同書92~93頁)

 「日本共産党がコミンテルンに加盟したのは1922年、レーニンがまだ健在で、多数者獲得、統一戦線などの課題の探究をはじめた時期でした。 そして、日本共産党中央が活動の中断を余儀なくされたのは1935年、コミンテルンが第7回大会で人民戦線の方針を打ち出した年でした」

 「この時期は、『社会ファシズム』など戦術上重大な誤りがおかされたとはいえ、コミンテルンの歴史のなかでは、まだ割合に健全な時期でした。 ですから、日本との関係では、戦術論では誤まった路線のもちこみはあっても、戦略論では、22年『綱領草案』、『27年テーゼ』、『32年テーゼ』と有益な援助をうけましたし、党の解党決議のときにも、福本主義の横行のときにも、党建設の組織論の確立でも、党の発展に役立つ助言を得たのでした」

 「そして、これから見るコミンテルンの最悪の変質の時期には、日本共産党とコミンテルンとの連絡は絶たれていました。 ですから、世界の共産党のなかでも、コミンテルン変質による悪影響をもっとも受けなかった党、ということができるかもしれません」

 


不破氏著「革命論研究」(下巻)つづき。「エンゲルス死後のドイツ社会民主党」=「決定的裏切りへ」

2016年04月08日 | 綱領関連

 エンゲルスは、1895年8月5日、その生涯を終えました。 (誕生日:1820年11月28日) エンゲルスが直接体験したドイツの選挙選は1893年が最後となりました。

 不破氏は、同書の215頁~219頁にかけて「(補論)エンゲルス死後のドイツ社会民主党」を掲載しています。

 「エンゲルスの死によって、それまでドイツの党に強く作用していた科学的社会主義の羅針盤が失われたことは、党に大きな影響をおよぼしました。 まず現れたのは、思想的な解体作用でした」

 として、コンラート・シュミット、ベルンシュタイン、ローザ・ルクセンブルクなどの哲学論、革命論、経済論、政治論などを指摘しています。

 「こうして、エンゲルスの死とともに、マルクス、エンゲルスが多年の努力を経てきずきあげてきた多数者革命論は、肝心のドイツに、まともにこれを受け継ごうとした潮流がないまま、事実上は棚上げの運命をたどることになってしまったのです」

 「党のこうした内部状況にもかかわらず、選挙戦での前進は続きました。 19世紀の末から20世紀初頭、第1次世界大戦にいたる時期の帝国議会選挙における、ドイツ社会民主党の得票と議席の推移は次のとおりです」

 「1893年 178万6700票 得票率 23・3%  44議席」

 「1898年 210万7100票 得票率 27・1%  56議席」

 「1903年 301万0800票 得票率 31・7%  81議席」

 「1907年 325万9000票 得票率 28・9%  43議席」

 「1912年 425万0400票 得票率 34・8% 110議席」

 「このように、有権者の3分の1以上の支持を得る帝国議会でもっとも強大な政党となったものの、社会主義政党として、その中身が空洞化していたというのが、1914年に第1次世界大戦を迎えたときのドイツ社会民主党の実態でした。 この党を中核としていた第2インターナショナルの崩壊は、まさに起こるべくして起こったものだったのです」

 「それにつづいたのが、1918年、ドイツ革命が勃発したときの、ドイツ社会民主党の裏切りでした。 1918年11月、打ち続く敗戦のなかで、ドイツに革命が勃発しました。 革命の火蓋をきったのは、11月3日、キール軍港における水兵の反乱でした。 この反乱は、キールに誕生した労働者・兵士評議会の組織とともに数日でドイツ全土に波及し、11月7日には、首都ベルリンでも労働者・兵士が決起し、彼らが組織した評議会を基礎に、8日、共和制の宣言、9日、2つの社会委主義政党による政府の結成と、事態は革命の全国的勝利へと急進展しました」

 「エンゲルが予見した『軍国主義の崩壊の弁証法』がその予言どおりに発動したのです。 ところが、共和制宣言が発せられた11月8日夜、翌日、革命政府の首相に就任することが予定されていた社会民主党の党首エーべルトは、ドイツ軍最高司令部の責任者であるグレーナー参謀次長と秘密の電話回線を通じて連絡を取り合い、社会民主党政府とドイツ軍部のあいだで、革命鎮圧のための同盟を結んだのです」

 「これは、大戦勃発のさいの帝国主義戦争支持の決定に続く決定的な裏切りでした」

 

 

 

 


 「ドイツ帝国議会の選挙戦」不破氏著「マルクス、エンゲルス革命論研究」(下巻)より

2016年04月07日 | 綱領関連

 「革命論研究」(下巻)103頁には、次のような記述があります。

 「フランスに勝利したプロイセンは、1871年1月、ドイツの諸国家を統合してドイツ帝国をつくあげ、北ドイツ議会は、『ドイツ帝国議会』に発展しました。 北ドイツ議会で選挙活動、議会活動の経験を積んだ労働者党は、いよいよ本番のドイツ国会での闘争に取り組むことになります。 活動の具体的な話に入る前に、ドイツの帝国議会の選挙での、ドイツの労働者党の得票と議席の実績を表にして紹介します」

 「19世紀の70~90年代の10回の総選挙の記録です。 この表をおおまかに見ると、1871年から98年までの決算は、得票は12万票から210万票へ、議席は2議席から56議席へという、実にめざましい躍進でした。 それは坦々とした一路前進の過程ではなく、そのかげには、激しい弾圧・迫害に抗し、幾多の苦難の時期をのりこえた苦闘がありました」

 「この時期のドイツの党の選挙戦への援助は、マルクスの生存中にも、エンゲルスがそのかなりの部分を引き受けていたようです」

 【ドイツの党の総選挙での得票・議席の推移】(同書104頁)=議席総数 397議席(同書 104頁、218頁より)

 1871年3月 得票数 12万4000票(2つの党の合計) 議席数 2 (2つの党の計、アイゼナハ派2議席確保、ラ     サール派全員落選)

 1874年1月 得票数 35万1700票(2つの党の合計) 議席数 9 (2つの党の合計)

 1875年  〔2つの党の合同大会〕

 1877年1月 得票数 49万3400票             議席数 12

 1878年7月 得票数 43万7200票             議席数 9

  〔社会主義者取締法制定〕=1878年10月19日成立、同年10月21日発効

  「党は解散、機関紙は発行禁止、社会主義にかかわる集会も厳禁、党の幹部や活動家は大量に逮捕・追放があいいつぎ、国会開会中の国会議員団の活動以外は、党の組織的な活動はいっさい認めない、という事態です」(同書111頁)

 1881年10月 得票数 31万2000票            議席数 12

 1884年10月 得票数 55万0000票            議席数 24

 1887年2月  得票数 76万3100票            議席数 11(提案権失う)

 1890年2月  得票数 142万7300票           議席数 35

  〇得票率19・7%、得票で第1党に。

 〔社会主義者取締法廃止〕

 「選挙戦での社会民主党の大勝を受けて、ビスマルクは、エンゲルスが懸念した挑発的策動をくわだてる余裕もなく、1カ月後の3月18日、皇帝に辞表を出して退陣しました。 そして、9月には、社会主義者取締法も期限を迎えて消滅しました。 ビスマルクの時代も、13年にわたる非合法化の時代も、労働者党の勝利的な前進のなかで終わったのです」(同書127~128頁)

 1893年6月  得票数 178万6700票           議席数 44  得票率 23・3%

 1898年     得票数 210万7100票           議席数 56  得票率 27・1%

 同書、130~131頁で、不破氏は次のように述べています。

 「90年代のドイツ帝国では、対外膨張政策とそれを推進する軍備拡大が、国政上の大争点でした。 そしてそれまでは、ブルジョア諸党のなかでも左派的な部分は、軍備拡大には反対の態度をとり、軍事費の問題は、いつも政府と議会のあいだの鋭い対決点となってきました。 93年選挙も議会が政府のだした軍事法案を否決したために、国会の解散によっておこなわれたものでした」

 「しかし、この選挙はこの点で政治地図が変わる転機となりました。 ブルジョア的反対派は崩壊し、ブルジョア諸党が連合して軍事予算を支持する態勢がつくられ、選挙後の帝国議会は軍事法案を可決しました」

 「一方では、労働者党のひきつづく躍進、他方では、ブルジョア諸党の帝国主義的膨張と軍備拡大の政策への連合した支持態勢、国政のこうした様相が明確になるなかで、ドイツは20世紀の帝国主義時代に向かっていったのです」