「革命論研究」(下巻)103頁には、次のような記述があります。
「フランスに勝利したプロイセンは、1871年1月、ドイツの諸国家を統合してドイツ帝国をつくあげ、北ドイツ議会は、『ドイツ帝国議会』に発展しました。 北ドイツ議会で選挙活動、議会活動の経験を積んだ労働者党は、いよいよ本番のドイツ国会での闘争に取り組むことになります。 活動の具体的な話に入る前に、ドイツの帝国議会の選挙での、ドイツの労働者党の得票と議席の実績を表にして紹介します」
「19世紀の70~90年代の10回の総選挙の記録です。 この表をおおまかに見ると、1871年から98年までの決算は、得票は12万票から210万票へ、議席は2議席から56議席へという、実にめざましい躍進でした。 それは坦々とした一路前進の過程ではなく、そのかげには、激しい弾圧・迫害に抗し、幾多の苦難の時期をのりこえた苦闘がありました」
「この時期のドイツの党の選挙戦への援助は、マルクスの生存中にも、エンゲルスがそのかなりの部分を引き受けていたようです」
【ドイツの党の総選挙での得票・議席の推移】(同書104頁)=議席総数 397議席(同書 104頁、218頁より)
1871年3月 得票数 12万4000票(2つの党の合計) 議席数 2 (2つの党の計、アイゼナハ派2議席確保、ラ サール派全員落選)
1874年1月 得票数 35万1700票(2つの党の合計) 議席数 9 (2つの党の合計)
1875年 〔2つの党の合同大会〕
1877年1月 得票数 49万3400票 議席数 12
1878年7月 得票数 43万7200票 議席数 9
〔社会主義者取締法制定〕=1878年10月19日成立、同年10月21日発効
「党は解散、機関紙は発行禁止、社会主義にかかわる集会も厳禁、党の幹部や活動家は大量に逮捕・追放があいいつぎ、国会開会中の国会議員団の活動以外は、党の組織的な活動はいっさい認めない、という事態です」(同書111頁)
1881年10月 得票数 31万2000票 議席数 12
1884年10月 得票数 55万0000票 議席数 24
1887年2月 得票数 76万3100票 議席数 11(提案権失う)
1890年2月 得票数 142万7300票 議席数 35
〇得票率19・7%、得票で第1党に。
〔社会主義者取締法廃止〕
「選挙戦での社会民主党の大勝を受けて、ビスマルクは、エンゲルスが懸念した挑発的策動をくわだてる余裕もなく、1カ月後の3月18日、皇帝に辞表を出して退陣しました。 そして、9月には、社会主義者取締法も期限を迎えて消滅しました。 ビスマルクの時代も、13年にわたる非合法化の時代も、労働者党の勝利的な前進のなかで終わったのです」(同書127~128頁)
1893年6月 得票数 178万6700票 議席数 44 得票率 23・3%
1898年 得票数 210万7100票 議席数 56 得票率 27・1%
同書、130~131頁で、不破氏は次のように述べています。
「90年代のドイツ帝国では、対外膨張政策とそれを推進する軍備拡大が、国政上の大争点でした。 そしてそれまでは、ブルジョア諸党のなかでも左派的な部分は、軍備拡大には反対の態度をとり、軍事費の問題は、いつも政府と議会のあいだの鋭い対決点となってきました。 93年選挙も議会が政府のだした軍事法案を否決したために、国会の解散によっておこなわれたものでした」
「しかし、この選挙はこの点で政治地図が変わる転機となりました。 ブルジョア的反対派は崩壊し、ブルジョア諸党が連合して軍事予算を支持する態勢がつくられ、選挙後の帝国議会は軍事法案を可決しました」
「一方では、労働者党のひきつづく躍進、他方では、ブルジョア諸党の帝国主義的膨張と軍備拡大の政策への連合した支持態勢、国政のこうした様相が明確になるなかで、ドイツは20世紀の帝国主義時代に向かっていったのです」