1)正岡子規
大きな声では言えないが、5年以上前に右足が脂肪萎縮になってから、1年毎に足が劣化し
2年前から、自室は布団敷きっぱなし状態になった。
動いたら、横になり、動いたら、横になる、生活に切り替わったのである。
その間、これは(正岡子規式生活だな)と思っていて(それ以上思わなければ良かったのに)
(正岡子規が何故最後迄、食にこだわったのか?
子規が何故最後迄、作品を書いたのか?)が気になり、検索し、伝記のようなものを探した。
実は、漫画・正岡子規を選ぼうとしたのだが、いやしくも70手前が小学生用で
済ますのもなんだと思い、渋々止めたのである。
問題は、私が全く、俳句・短歌・漢詩が理解出来ない所にあった。
選んだ本は、「評伝 正岡子規/柴田宵曲」である。
更に問題なのは、私が、絵であるならば、静物・写生・風景画に、全く興味がない事だった。
子規は(人より、花鳥風月が好きである)と言い、そういう作品を残した人である。
因って、作品は、飛ばす事にする。(大馬鹿野郎と思われても、致し方ない)
子規は、35才で逝去し、最後寝たきり8年だったが、最初の喀血は23才であった。
学生の頃から書き始め、亡くなったのは9月18日だが、その午前にも三句をしたためている。
14日弟子虚子に口授してとあるが、それ以外に、口授の文字は無い。
日本新聞社社員。
友人・知人・弟子に恵まれ(漱石・露伴・紅緑等々)、苦しみと戦いながらもさぞかし楽しい日々であったろう。柴田宵曲の淡々と粛々とした文を繰り返し読んでいると。
友人・知人・弟子・母妹に囲まれ。
これだけ書き、生きた子規は、幸せな人生だったのではないかと思う。
途中、面倒になり、子規を検索したら、漱石が出てきて、当家に全集初版本があるのを思い出し。
その中の「評論・雑篇」の中に、子規からの手紙の事が書いてあった。
・・・・
其手紙にはかうある。
僕ハモーダメニナツテシマツタ、毎日譯モナク號泣シテ居ルヨウナ次第ダ、
・・・・
筆力は垂死の病人とは思へぬ程慥である。
・・・・
この手紙は、亡くなる前年の11月に書かれたものである。
漱石に(慥である。)と言わせた、子規の生命力を感じる。
子規は結核の為、短命ではあったが、強い生命力があった(私と違い)というのが
結論だった。
2)夏目漱石
彼を10代の頃、私は好きだった。初期、坊っちゃん・吾輩は猫である・草枕の頃が好きで。
後半の小説は、申し訳ないが嫌いだった。
柴田宵曲が延々と続くので、漱石の雑篇と互い違いに読んだ。。
漱石は、当時、序を乞われる事が多かったらしく、30程、書き残っている。
呆れる事に、鈴木三重吉の序は(3行と6字)である。
1番長い序は、高浜虚子(8頁と5行)である。鈴木との間に何があったのか、わからない。
講演の草稿も載っているのだが、多分当時録音は出来なかったろうに
「ここで、君達は笑うであろうが」と話し、笑わなかった場合どう誤魔化したのかと面白い。
で、勉学のべと、努力のどの字が大嫌いな私は、連日、柴田宵曲と漱石を読み続け
キレたのである。
(もっとちゃきちゃき ものをいう人間はいないのか!)
居たのである。
最初に思い出したのが、白洲次郎。
次が、麻生和子であった。
次回は、又、気が向いた時に。
書き足したいと思います。