きれいなきれい〈田添公基・田添明美のブログ〉

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【正岡子規・夏目漱石・白洲次郎・吉田茂(3)】    田添明美

2018年11月16日 07時32分09秒 | 「いたずら」田添明美

4)吉田茂
20数年の図書館通いで、特別面白かった本が、2冊あった。
1冊は題名も著者名も失念し悔しいが、日本の音楽家の実話だった。もう1冊は。
「父 吉田茂/麻生和子」
昔の私が覚えていた箇所は、和子が、昭和天皇への初回単独拝謁の際、俯いて入室し。
作法通りに進み、顔を上げたら、そこは、壁だった。その1点だった。
その筆致は、みずみずしく、初々しかった。
購入し、(どこに、白洲が登場するのだろう?)と読み終えたが、白洲の(し)の字もなかった。
確かめると、白洲次郎の私家版は(1990年)発起人の筆頭が、麻生和子であった。
「父 吉田茂」は、(1993年)に書かれている。彼女は、父を書いたのである。
ここで、まず和子の潔さに触れた。

二・二六事件の際、
偶然に、和子はその前日の夜9時に、母方の祖父牧野伸顕(大久保利通の次男)の別荘に着いた。
翌朝5時頃、ピストルの音に目覚め玄関へ行くと、護衛官が倒れている。
急いで、雨戸を開け、祖父母・看護婦4名で外に出たが、家は崖っぷちに建っており下は道路、両側は塀。
祖母は咄嗟に、和子の羽織で祖父を隠したが、下の道路から祖父の前に立つ和子めがけて兵隊が撃ってくる。
何発かの弾が、顔のそばを風を切っていく。家が燃え始める。
和子が(あっちへ逃げてみましょうよ)と祖父に声をかけ、みんなで塀に体当たりし、裏山を這い登ったが。
裏山は禿げ山で、後から狙い撃ちされるものと、覚悟はついていた。
後で、分かったのだが、護衛官が、大将・副大将格を撃った為、指揮官を失った兵隊は
たまたま祖父が、倒れた塀につまずいてばったり倒れたのを、(弾が当たった)「成功」と叫び引き上げたそうだ。

凶弾に倒れたのは、高橋是清・斎藤実・渡辺錠太郎。重症鈴木貫太郎。
和子は、祖父を救ったのである。

吉田茂は、32年間外交官だった。
終戦後、吉田は「たたいてもホコリの出ない」数少ない一人といわれ首相候補となる。
吉田は幾人かに、総理をお願いしたが、引き受け手がおらず、総理となる。
総理となった時、祖父牧野は「だいじょうぶかね」と首をかしげ
和子も「私もそう思うわ」と顔を見合わせた。
吉田は、焼け跡の散歩を繰り返し、「見ててごらん、いまに立ち直るよ。必ず日本人は立ち直る」と繰り返した。
福岡県飯塚に嫁いだ和子は、夫麻生太賀吉と共に、吉田を補佐する。
吉田を敬愛した太賀吉は、政治資金のない吉田に、麻生家の財産のおよそ半分を使い尽くした。

吉田とマッカーサーは、互いに強い性格だったが、波長が合った。
敗戦時に猛スピードで、司令された事項を、猛スピードで遣り遂げた当時の日本人を誇りに思う。
昭和26年サンフランシスコ講和条約締結。同年、マッカーサーは罷免され帰国。
昭和29年第五次吉田内閣総辞職。政権担当七年二ヶ月終了。

以後、吉田は大磯で暮らす。
吉田は富士が好きで、西日が差しますと言われても、富士に向かう窓を作らせた。
昭和42年、床に着いた吉田はきれいに晴れた秋の日に、体調が良かったらしく、椅子に移して貰い、
はっとするほど美しい富士に「きれいだね、富士は」と言い、和子と眺めた。
その日、和子が自宅へ戻る途中逝去。89才。

私は、俳句が分からないが、3~4句の俳句は、好きである。
特別好きな句は、芭蕉の【夏草や兵どもが夢の跡】で
両親を見送り、義母を見送り、次は自分となったこの頃。
この句の(兵ども)を、栄華を誇った者・功名を競った武士達では無く、(全ての人)と感じる。

佐藤愛子の【晩鐘】のラストに、以上の、私の思いを託したい。
・・・・・・
畑中辰彦は彼なりに、一生懸命に生きた––––––。
彼はかく生きた––––––––––。
辰彦だけじゃない。正田さんも川添さんも桑田さんも、皆、「かく生きた」という事実が
あるだけです。その人生の意味とか、徒労であったとか、立派であったとか、辛かっただ
ろうとか、幸福とか不幸とか、そんなことをいう必要などないのです。
わからなくてもいい。わからないままに、「かく生きた」という事実の前に私は沈黙して
頭を下げる。それだけです。
・・・・・・・