さまざまな 顔をし
空は立っている
ねむそうな星がおちてくる
あれは流れ星だよ
空は教える
どこへ 行くのか
おれは知らない
行きたいほうへ 行くのだろうね
空にも 泣きどころはある
おりしも
ありたけの
風雨に追われ、
からりとはれた
翌朝
地面が めりこんで
あやうく
立ち姿が よろめく時だ
空はふんばる
かゝる顔に
からから と
うっすり 紅いろに
かんかん と
空は刻まれない、
空の顔は うつっていくのだ
R3.4.21
さまざまな 顔をし
空は立っている
ねむそうな星がおちてくる
あれは流れ星だよ
空は教える
どこへ 行くのか
おれは知らない
行きたいほうへ 行くのだろうね
空にも 泣きどころはある
おりしも
ありたけの
風雨に追われ、
からりとはれた
翌朝
地面が めりこんで
あやうく
立ち姿が よろめく時だ
空はふんばる
かゝる顔に
からから と
うっすり 紅いろに
かんかん と
空は刻まれない、
空の顔は うつっていくのだ
R3.4.21
20代の頃、父が新婚の私の夫の仕事を心配し、父の親戚である当家の近くに
住んでおられ、美大卒業後凸版印刷に勤めていた方に、何か仕事がないかと相談した。
当時、夫は、医学書の仕事がかなりあり、乗り気ではなかったが、
父と私達夫婦で、そのお宅へ伺った。
後日、
彼が、連れて行って下さった所は、いかにも貧しい絵本の挿絵画家の家で、
トイレに掛けてあったタオルが相当汚れていて、この道は厳しいと感じた。
彼の父は、水彩画家/小山周次(1885-1967)で、その時既に亡くなられていた。
調べると、日本水彩会の創立者であった。
彼には、息子が二人いたが、二人とも、画家の道には進まなかった。
出会ったのは、周次の長男で。
彼は彼の人生を掛けて、父の作品を同じ場所に置くよう手配し、
小諸の美術館へ、全ての作品を売ることなく、寄贈した。
ある日、松濤美術館で水彩画展があったので、二人で出掛けたら!
岸田劉生麗子像の隣に、小山周次の作品が飾られており、かなり驚いた。
驚くままに、次の展示室に行くと、周次の雪景色の作品があった。
私は、風景画に全く興味がないのだが、清冽な絵の前に立ち尽くした。
それから、近所に住む長男は、毎年(申告に来たついで)といい自転車で
やって来ては、当家に顔を出し、私と二人でお茶を飲む交際が、始まった。
彼が会社を引退し、80半ばを過ぎた頃、
奥さんから(惚け出したので、遊びに来て欲しい)という連絡が入った。
彼は記憶力にたけ、(あれは、何年何月の事です)という方だったので、悲しかった。
この奥さんという方が、魅力的な方で、飾り気の全く無い童女のような方だった。
そうして、訪問をしている間に、彼は亡くなり、また
奥さんから(遊びに来て欲しい)という連絡が入った。
私達は、彼が亡くなってからも、3~4年訪問したと思う。
ある日、童女の奥さんは、小山周次の小作品(りんご)をぽんと下さった。
大切に、飾った。
(こんな書簡もまだ、あるのよ、知らない?有名な方ばかりよ)というので。
それもまるごと、寄贈した方がいいですよ と応えた。
その家は、古く、小山周次のアトリエが、そのまま残っており
茶の間には、その茶の間から見たかわいらしい周次の風景画が、いつも飾られていた。
これは、手放したくなかったんだな、といつも見ていた。
周次は酷く、怖い人だったそうだ。
長男は、何度も私達に(おやじは、家庭なんか考えないで、絵だけ描けば良かったのに)
とくりかえした。
しかし、それをしなかった周次は、茶の間から見たかわいらしい風景画が描け
二人の子供をうまく、育てたんだ、と私は思う。
周次も、長男も、その奥さんも、既にいない。
周次の(りんご/周次の還暦少し前の作品)だけに、
それら全ての思い出が
残っている。
R3.4.29
追記/FBへのコメント
あたたかい名画ですよね。伝わってうれしい!
この風景画には、周次の(気持ち)が、現れている。
自分はこの家がすきで、この家から眺める風景がすきだという気持ちが伝わってくる。
少なくとも私には、彼独特の渋面を崩し、彼がそう言っているのが、聞こえてくる。
そして
周次の息子は、この周次のアトリエのある家を壊さず守り、
その孫ですら、アトリエのあるこの古い古い家を、守っているのです。