今朝はまだ昨夜の雨が残っていて、しっとりと地面が濡れていました。ひどくはないのですが、時々春時雨のようにさっと降っては止んだりと、でも午後からはずっと曇でした。気温もやや低め。
昨日やっと今年の確定申告を書いて提出しました。これは毎年のことなんですが、しかし、一年に一回だけのことですので、書き方をすっかり忘れています。また一からという感じで、何度書いても分かりませんし、今年は控除などに変更があったりしてホントにややこしいです。勤めていたときは言われるままに書類を出して、その年末調整の還付金が3月にあったりすると喜んでいたような気がしますが…。退職後いつ頃から確定申告をするようになったのかしら。年金をもらうようになって…でも額が少なければ所得税も大したことはないので確定申告なんて…と思っていました。ところが、講師料や原稿料をもらうようになってから、それにしても大した額ではないんですよ…それなのに毎回なんで~と、腹が立ってきます。収入の10.21%が源泉徴収されるのですから。100万を超える人は超えた額に20.42%…らしい。そんなにもらったことないので、よく分かりませんけど…。(笑)
ところで、この確定申告を書く時期になると、すぐ次の加藤楸邨の句を思い出してしまいます。
春寒くわが本名へ怒濤の税
もちろん私の微々たる額と大作家の収入とは比べられるわけもありませんが、多額であればあるほど痛切にこの税の重さを感じたのではないかと思います。この句については、清水哲男氏の懇切丁寧な鑑賞文が『増殖する俳句歳時記』にありましたので転載させていただきましょう。
季語は「春寒(はるさむ)」だが、句意には「春にして、いよいよ寒し」の感がある。「怒濤の税」をかけられて怒り心頭に発し、寒さなど吹っ飛ぶかと思いきや、あまりの予想外の重税にかえって冷静になってしまい、何度も数字を確認しているうちに、ますます寒さが身に沁みている図だ。上手な句ではないけれど、「本名に」が効いていて、当人の困惑狼狽ぶりがよく伝わってくる。ちなみに、作者の本名は「加藤健雄」という。私は筆名を使わないのでわからないのだが、使う人にしてみれば、筆名で得た収入の税金を、稼ぎの少ない本名に課されるのは、それだけで理不尽な感じがするのだろう。同じ人間が二つの名前を使っているにせよ、それぞれ「加藤楸邨」と「加藤健雄」と名乗るときの人格は、多少とも区別されているに違いないからだ。大袈裟に言えば、当人にもほとんど別人のように思えるときもありそうである。それがお役所の手にかかると、にべもなく同一人物とされてしまうのだから、とりわけて収入の少ない「健雄」には納得し難いというわけだ。税金の季節、今年も申告用紙が送られてきた。収入からして私に「怒濤の税」は無縁だが、つらつら項目を仔細に眺めてみるに、いろいろな控除額が激減している。広く薄く、取れるところからは少しでも取ろうという魂胆が見え透いていて不快である。掲句とはまた別の「春寒」を感じている納税者が、今年はずいぶんと増えているのではあるまいか。 『俳句歳時記・春の部』(1955・角川書店)所載。
ちなみに楸邨は、1954年から青山学院女子短期大学国文科教授に就任して給料をもらうようになっていますので、給与所得と著作や原稿料などの雑所得にかかる税の違いは余計に感じられたことでしょう。いや、昔は…昭和30年頃の税率は今と比べてどうだったのかな~、特に雑所得に対しては?ホントに税金のことはさっぱり分かりません。こちらはいつも取られるばっかしだから。ほら消費税だってすぐに10%に上がるでしょう…。そんなに無駄遣いをしようとは思っていませんけど、でも1,000円が1,080円にはもう馴らされてしまって、今度1,100円払ってもそれほど気にならないかもしれませんね。けれど、これが100万円だったら税金が10万だ!と考えると、ムカッと頭にきませんか?
写真は〝シクラメン〟。てっきり冬の季語だと思っていましたが、春の季語なんですよ。そういえば、毎年買うのに今年は一つも買いませんでした。忙しくて花を眺める余裕もなかったのかしら。この花はいつもリハビリに行く整形で。