ドイツの自宅近くのスーパーマーケットでの出来事。
朝食用のパンを買い忘れていたことに気付き、夕方スーパーマーケットに入って、パンを1袋手に取り、レジ待ちする人達の列の最後尾に並びました。
しかし土曜日ということもあってか(ドイツには日曜日にお店が閉まるので)、沢山の食料品をカートに入れた人達がずらりと並び、なかなか順番待ちの列が進みません。
そんな中、パン1袋だけ持った自分を見た前列の人が、「1つだけ?それなら先にどうぞ」と声をかけてくれました。
するとその前の人も同じように声をかけてくれ、さらにその先でもと4~5人抜かして、あっという間に最前列まできてしまい、「なんだか悪いな、、、」と思いつつも、皆にこやかな顔で先を譲ってくれたので、お礼を言って、さっさとレジで支払いを済ませて店を出ました。
これも文化の違いかなと思いつつ、家への岐路の途中、ふと先日WEBで見た日本のニュース記事を思い出しました。
それは東京の山手線で起きた、視覚障害者のホーム転落事故の記事で、事故で亡くなった方だけでなく、かなりの割合の視覚障害者の方が駅のホームに落ちた経験を持っており、「ひと声かけるだけ」で、そのリスクはずっと減らせるといった内容のものでした。
5年前東京からドイツの田舎へ引越した際、あまりにも不便かつ非合理的、情報もなく友人もいない、英語すら殆ど通じない生活に、日々本当にうんざりしていたものですが、その田舎での生活の中でも、今日と同じようにスーパーで列を譲ってもらったりしたことや、困っている時に地元のドイツの方に親切にしてもらったことがあったなと、すっかり忘れていた数年前の出来事がふと脳裏に浮かびました。
2年前にフランクフルト市内に引っ越し、ドイツでの生活にも多少は馴染んで、生活の不便さは当時と比べ物にならないほど楽になりましたが、それでも毎日のように大幅に電車が遅れたり、突然運休になったりすることに腹をたてたり、非効率的なことがあたり前の文化に、「まったくドイツは~」とよくイラついている自分が重なり、なんだか少し恥ずかしくなりました。
どんなものでも2面性があり、良い面、悪い面があるもの。
日本(特に都会)での生活は効率的で便利な反面、人と人との関係が希薄で、自分を含めて、皆どことなく気持ちにゆとりが無くなってしまっている気がします。
東京に住んでいた頃の自分は、他人に無関心で、ある程度のお金をだせば他人と必要以上に関わらなくても生活が成立し、「その距離感」が心地よいとさえ感じていました。
もし「ひと声かけることで減らせるリスク」を知っていたとしても、「親切=おせっかい」の勝手な図式で、障害者がいても素通りし、見知らぬ他人に親切にすることを「偽善」とか、「なんだか嘘くさい」と感じる自分が少なからずいました。
しかし異国の地での不便かつ情報も不足しがちな生活の中で、人は助け合わないと生きていけないことを、日々「学ばさせられている」気がします。
10年前の9.11事件後、欧米や日本等のいわゆる西側諸国では、アラブ諸国に対してネガティブなイメージがありますが、数年前に北アフリカを旅した時に、電車の中でも町中でも、多くの人達が体の不自由な人に対して、びっくりする程すごく親切にしている光景を幾度と無く目にし、「弱者に優しいイスラム文化」の存在を知りました。
(そんな弱者に親切彼らにとって、嘘をついて人を騙すことは、それ程悪いことではないみたいですが。苦笑)
ものの良し悪しなどというものは、誰かのモノサシの上での出来事だけで、時と場所が変われば、全然別の意味を持つことも少なくないのかもしれません。
そして日々あっという間に過ぎていく自分達の日常に対して、時にはまったく別の角度から、「視点を変えて見てみる」ことも必要なのかもしれません。
そんな繰り返しの中で、どこかへ落ちかけそうな誰かに届く「ひと言」が、生まれるのかも、、、。
日の暮れかかった空の下、家への帰り道、「スーパーマーケットでパン1袋買うだけで、気付かされることがあるな、、、」と、そんなことを感じた1日でした。
※写真:スーパーマーケットで買ったパン