鳥!連続写真!掲載中!

近くの多摩川に飛来する野鳥の連続写真を中心に、日頃感じた出来事を気ままな随想でご紹介し、読者双方との情報を共有したい。

3月(やよい)

2016年03月02日 00時00分01秒 | 紹介

 2月は逃げるといって、早く過ぎ去る。ことしは閏年のため、2月は29日まであった。丁度、兄貴の誕生日である。昭和19年2月は29日であり、4年に1回しか回ってこないので、両親が出生届を1日遅らせて提出したようであり、出生日時を変更すること、すなわち誕生日を変更することは今では出来ないと思う。両親は戦時中徴用で台湾に住居があった。自分も昭和21年であるが、台湾の高雄で誕生し、引き揚げてきた。戦時中には台湾総督府が置かれ、役所の機能はそこで行なわれていたのであろう。戦時中でもあり、少々の事柄については目をつむってくれたのであろうか。

 

 終戦後、軍務が解かれ、父親は下関の日水に勤めていた。三重県にある水産講習所漁労科を卒業し、亡くなるまで、水産関係に従事していた。北海道函館では、北海道漁業公社に所属し、南洋のマグロを捕っていたようであるが、日ロ漁業に移籍し、鮭・ますの母船式方法による漁法に貢献したようである。当時母船は独航船を300隻連れて行ったと聞いている。母船は一種のコミュニティ基地であり、病院を兼ね、独航船が必要とするあらゆる備品や燃料を供給していた。また、母船は缶詰工場であり、捕った鮭ますを母船で加工していた。

 

 縁とは不思議な物で、自分が労働省へ派遣され、派遣期間が満了した年は3月末であり、原隊に復帰後、函館への転勤が決まっていた。開発援助課という新しい課が誕生し、そこの課長であった。配属された部下には、日ロ漁業の函館支社を定年で退職し、嘱託として当該課の所属となった。父親との関係はしばらく経ってから分かったことであった。その他10名を上回る組織であり、4月1日の開設に向け、準備もままならない中、小雪が舞い散る函館空港に降り立った。式服だけを携えた単身赴任であった。

 

 三月は、なんと忙しい月なのか、子供の頃は学年が1学年上がるだけであり、組替え等はあったものの、忙しさは感じていなかったが、サラリーマンになると3月は年度末の決算や、次年度計画の企画、教育訓練関係であったので、受け入れ準備に奔走していた。退職者の歓送会、移動のあった方の歓迎会等を入れると、3月の多忙さは2月に引けを取らない。

 

 このようなイベント続きがある中での3月生は、まともな誕生祝いを受けたことがなかったと女房の口から漏れた言葉を思い出す。さもありと納得したことであった。兄貴の例からして、2月29日生まれの方はどのようにされているのか興味がわく。