神代植物園の大櫻の開花に合わせてヒヨドリが蜜を吸いに来ていました。
ボランティア活動が、無償の復興支援に当たったことは、阪神大震災や、東北北関東を襲った3.11東日本大震災から5年を経過した今、冷静な目で当時の様子を検証することは意味があることであろう。津波にあった東日本の復興は、被災者の生活を一変させ、特に、福島における原発の被害は、除染の限界もあり、未だ復興途上にある。この津波によって、原子力施設が崩壊し、核燃料や使用済み核燃料が拡散している。原発を稼働する燃料であるウランや使用済み核燃料プルトニューム等は、人々の安全に暮らせる環境を再現するには不可能に近く、人知を傾注してもその解決方法は難しいとのことである。
自然災害に対する日ごろの監視や警戒は引き続いて行っていかなければならないが、ボランティアが行ってきた活動の一部を紹介した記事に触れて思ったのは、現在でもボランティアに頼る姿勢が行政の中にもみられることで、災害といえばイコールボランティアではないと思っている。ボランティア活動を契機としたNPOの立ち上げは行政が行届かないニッチな部分を埋めるには良いことであるが、被災地の再建には、元通りにすることは当然としても、それだけでは万全とはいえない。
災害は忘れたころにやってくるの格言通り、ボランティアが必要とされた部分を行政側が取り入れていく努力は継続するべきであろう。本来からすると、千年に一度の災害だから仕方ないなどと逃げ口上をいうのは、行政の怠慢があってのことで、ボランティアの善意はチープな労働提供の域を脱せない形となっていれば、それは甘えというものであり、国を含め、地方自治体の根幹にかかわる問題であるからである。
今回の復興に合わせてボランティアを呼び寄せて感謝の集いなるものが行われたようであるが、それはそれで意味あることとしているが、報道では、災害の危険地帯にもかさ上げして、住宅の建設が進んでいる。この判断に至ったのは住民の意向が組み取られた結果であるから部外者の考えを押し付けるわけにはいかない。しかし、3.11以上の震災が起きないとも限らず、その点を考慮したとは思えない判断ではなかったかと案じている。
ボランティア活動の位置づけを明確にしてこなかった行政側の怠慢についても明らかにしていく必要があろう。復興財源は国民が負担し続けている構造となっているし、原発で支払う補償金についても、電力料金の値上げがかかわっている。この問題も地域の自治体だけの問題ではなく、広く国民に問う形にしなければいずれ不満が出てくることであろう。
ボランティアを必要としない行政の遂行が念頭に無ければ、いくら箱ものや体裁を整えても復興の真の意味は半減する。