鳥!連続写真!掲載中!

近くの多摩川に飛来する野鳥の連続写真を中心に、日頃感じた出来事を気ままな随想でご紹介し、読者双方との情報を共有したい。

春眠

2016年03月24日 00時00分01秒 | 紹介

 暖かくなるとなにゆえに眠気を誘うのであろうか、春眠暁を覚えずは、文字通り、夜が明け、朝になっても気が付かずに眠り続け、または微睡んで(まどろむ)いる状況を詩にしたのであろう。緊張感が消えうせ、平和そのもののようである。春の穏やかな気温の上昇は、秋も同様な状況があり、小春日和などと呼んでいる。漢文には「邯鄲(かんたん)の夢」があるが、時間にして数分なのであろうが、その一瞬ともいえる短い時間に、途方もない広大な夢を見た話である。

 

 昔、中国邯鄲の町で、盧生(ろせい)が道士呂翁(りょおう)から、思い通りの栄達がかなうという枕を借りて昼寝をした。果たして多年栄華を極めた夢を見たが、夢から覚めるや炊きかけていた高粱(こうりゃん)がまだ煮えていなかったという故事である。つまり、栄枯盛衰のはかなさをいう譬え(たとえ)として用いられる。別の言葉で、一炊の夢や盧生の夢ともいう。

 

 同様な故事に「邯鄲の歩み」があるのでついでにご紹介しておこう。古代中国の戦国時代に、趙の国の人は歩き方が格好良かった。燕の国の一青年は、趙の都邯鄲に行ってその方法を学んだが、学習の途中で帰国したため、歩き方の方法をを習得しないばかりか、故郷への足取りも忘れて、腹ばいになって帰ってきたという。この故事の意味は、自分の本分を忘れて、他人の真似をすると両者を失ってしまうことの譬えである。何事によらず、学習の途中でやめてしまうと全くの無駄になるということである。

 

 心当たりがある方も多いと思われるが、邯鄲の夢や邯鄲の歩みに象徴される故事には、現代でも通じる人生訓話である。含蓄が深いというか、的を射た話として共通している。球界成功物語の顛末に、覚せい剤におぼれ、その逮捕劇がこのほど紙上を賑わせた。

 一寸先は闇とはいえ、うたかたの栄華は決して長続きはせずに、行先どん底への切符を手にする。この切符は栄華の真っただ中にいる者には不思議と見えない。または、目に入らないものであり、どん底に突き落とされてはじめて見えてくるものなのである。

 

 与えられた人生をどう生き様が他人の口出す話ではないが、間違った選択する姿を知ると邯鄲の夢の話が呼び戻される。唱歌青葉の笛で歌われているように、驕れるの平家の公達あわれということであろうか。