つかの間の晴れ間、カワラヒワとよく合います。
肉体は滅びても魂は生き続けるとの話は記憶の中に存在するご本人は、生きていようと死んでしまっていても、よほどのことがない限り存続し続けるのであるから(よほどのこととは、事故や病気で脳が欠損した場合など記憶が破壊されて状態)、人の生死とは無縁の関係である。魂という得体のしれないものは、物質に置き換えられないから、そのような表現になったのだと思う。実際に身体は魂の乗り物といういい方もあるが、物質論から説明がつかないからだけであって、記憶の中にある無き人のことを身体という物質と、魂との存在をそれぞれ区別しているわけではない。
墓に参る場合も、埋葬されているのは身体を構成していた一部の物質があるだけで、それに対して挨拶や報告をしているのではなく、記憶に残っている人物そのものに対面しているのである。この時には、魂が実在しなくてもよいのであって、生存していた時の記憶に残る印象でよいのである。自宅の仏壇は、お盆の時や呼び寄せた時にだけ魂が帰る居場所ではないのである。仏教では位牌に魂を入れてあるので、位牌イコール死者の形代のような考え方があるが、どうもにわかに信じがたい。
それは場所ではなく、死者と向き合うのはいつでもよく、仏壇や墓に手を合わせた時だけに限定する必要はないと思っている。ここで、わが国の宗教を批判するつもりは全くなく、おのれの平素から思っている亡き人の思い出についての考え方をご披露している。
記憶になかった方や、時間の経過で忘れてしまったことまでは再現するのは何かきっかけがないとできないが、ふとした瞬間に記憶をたどれば、本人に会えることもある。
例えば、ラジオやテレビから流れる演歌が、昔同席して酒を飲んだ記憶が呼び出され、友人の死を現実に引き戻されるなど、二度と生きては会えない寂しさを感じる。他人が見せるちょっとした仕草が、どこかで見たような気がし、しばらくたって、知り合いの故人であったりもする。自分の頭の中にある記憶には、生きていた時の故人が焼き付いているのである。決して死んだ後ではなく、生きた世界での記憶である。なぜなら、死んだ世界を知らないし、記憶にないからである。
思い出はすべて脳の記憶のなせるワザであり、死者であっても永遠に生き続ける。埴沙萌先生の強烈な印象は、今夜の晩酌で思い出の一ページをめくる良い機会でもある。合掌。