気温の上昇とともに、日々変化が見られるのは、今の植物園であろう。手入れが行き届いているおかげで、啓蟄、地中でうごめき始めた虫たちのサインがあり、多くの草花が芽吹き始め、梅や緋寒桜、花桃の開花は、すでに動き始まった無言のサイン。ものいわぬ植物からのメッセージのようである。何やらざわめきが聞こえてくるような春の息吹を感じられる場所なのである。人もこの季節の変化には敏感であり、情報だけではない体に刻み込まれたセンサーが何かの原因でスイッチが入り、春の訪れを感じる。
四季のうちで春は特に何かが始まるという息吹を感じる。卵が先か、鶏が先かはわからないが、うきうき気分はどこから来るのであろうか、昔ならもっと敏感に季節の移ろいを感じたのであろうが、現代に生きる我々も、等しく春を感じている。冷たい木枯らしの中にも、春野菜や、旬の肴からも、服装の変化も大切なサインである。羽毛のコートは薄手のカーディガンに変わり、耳まで隠れる毛糸の帽子や皮手袋はなぜか暑苦しく感じられる。
今までの寒さはどこへ行ってしまったのか、冬は防寒着や暖房器具までも一緒に運び去る。暖をとった電気やガスストーブは、設置場所すら失い、春の暖気に負けて、そこそこと次の寒さ到来までの間、仮眠所を探す。そこは、暗くて通気の悪く、だれも訪れない場所である。ロフトの一番奥まった場所や、めったに家族が目にしない物置の隅と決まっている。
暖房器具はおそらく寒かった時の家族の穏やかで、満足した顔や会話を記憶の一つとして旅に出る心境なのかもしれない。誰も見送ってくれない別れである。季節の移ろいには旅が似合う。木枯らしとともに、北欧のチョコレート職人が少ない調理具とともに、流浪の旅を続けるように。慣れ親しんだ故郷を旅発つ寂しさを友としながら・・・。
春が良いと思うのは、恋の季節の到来でもあり、食物が新鮮で、ほろ苦さと強烈な芳香をもって、冬には味わえぬ再生した本来の個性を発揮することに他ならない。ウドの香りとシャキシャキ感、セリもなんともいえぬ苦みと芳香、ヨモギ、桜餅のかおり、すべては香りとえぐみの競演である。地中に埋まっていたものが地上に出て春の日差しを浴びる。目が覚め、活動開始である。
植物の世界は、土という柔らかベッドが重要である。枯れ葉は栄養となり、秋から冬に落ちた木の実や種子は柔らかなベッドに落ち、新たな植物として旅に立つ。始まりは春なのである。植物園の春はうきうき気分が感じられる場所なのである。