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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

教養

2019-11-27 10:52:20 | 教育

(略)
>■身につけるべきは「教養」
>しかし、たとえば視野の拡大、思考の深化、全人格的な能力が向上すれば、時代がどのように変化しても対応し十分に乗り越えて行けるし、変化そのものを創り出す側に回ることさえできます。

各人に哲学が必要である。Everyone needs a philosophy.

> 人間が他の動物と違って親の庇護のもとにいる時間が長いのは、環境変化を乗り越えられる底力を、それこそ長い年月を使ってじっくりと培っているからだと言われることがあります。 >そう考えれば、教育に求めるのはテストの点数やどこに進学したかということより、もっと根源的な思考力の獲得であり、それは目先ですぐ成果が出ない教育であるべきだということがわかります。 >そのひとつが「教養」です。

現実の内容は ‘今ある姿’ (things as they are) の文章になります。
非現実 (考え) の内容は、’あるべき姿’ (things as they should be) の文章になります。
前者と後者を比較して前者を批判すれば、その人は批判精神 (critical thinking) を示したことになります。
だが、日本語には、前者だけしかないので、日本人には批判精神がありません。
そこで、日本人の比較論議は、現実対現実の枠内に限られることになります。一般的には、この論議は個人の特徴評価というよりも同次元の上下判断になることが多いのです。
だから、上下信仰・序列信仰・偏差値信仰がこの国に蔓延しています。
しかし、日本人は ‘それでどうした’ (So what?) の疑問には答えることができません。自己主張ができない。奥がない。それで、日本人は浅薄な人間であることが知れ渡ります。

>たとえば樹齢数百年の巨大な神木を目の前にしたとき、受験勉強だけをしていたら「この木は〇〇という種類で〇〇のような気候条件があったためここまで育った」としか出てこないでしょう。>しかし教養が育っていれば、その大木がタネから芽を出し、様々な風雪や病害虫に耐えて育ち、人々から敬われるようになったという時間や空間を超えた文脈、そして原風景までに思いを馳せられる感性や想像力が発揮されます。

受験勉強は、何処までも処世術 (現実) に裏打ちされていますね。

>そうした感受性や応用力を持てば、自らの力で人生の展開を構築することができます。>もちろん、より文化的で心豊かな人生にもなります。

受験勉強は、唯一の正解を求める励みですね。

>■親が「偏差値信仰」に陥ってはいけない
> ガリ勉させて得た進学実績などほとんど価値はなく、ガリ勉しなくても東大に合格するような根本的な能力の獲得の方が重要です。

あくまでも序列信仰にこだわっていますね。

>なぜなら、東大のようなトップ校ほど、深く考え、複雑な文脈を理解し、知識を横断的に統合する必要がある、思考力を問う試験だからです。>海外の名門校はさらにその傾向が強いと言えます。

日本人には、非現実 (考え) の内容がありません。ですから、英米流の高等教育は身に付きません。留学帰りの若者は役に立たないでしょう。

>それはこれまでも繰り返し述べた通り、自由に発想し、知的好奇心を持って課題を発見し、クリエイティブな方法で探求・解決し、それを表現・実現する経験を積むことです。

自由とは、意思の自由のことですね。しかるに、日本人には意思がない。だから、’不自由を常と思えば不足なし’ ということになります。

> 特に、ことさら進学実績をアピールする学校は要注意です。>ペーパーテストで良い点数を取ることしか頭にないからです。

日本語には、階称 (言葉遣い) というものがあります。’上と見るか・下と見るか’ の世俗的な序列メンタリティ (考え方) がないと、日本語の日常会話にも差支えが出るほどです。そのうえ、日本人の礼儀作法は序列作法になっているので、世俗的な上下判断が疎かであっては、礼儀正しい日本人になることもできません。人を見損なってはいけないという想いが高じて、強迫観念の域にまで達しています。ですから、日本人は、堅苦して日常生活を送っていて、’頑張って’ とか ‘お疲れ様’ とか言い合ってお互いに励まし合っています。

>すると、それこそ18歳の春が能力のピークで、あとは下降するだけ、ということになりかねません。

‘(略) しかしいったん、大学に入れば、控えめに表現しても、成績と出席の基準はたるんでいる。大学を含め、日本の子供たちが習うものごとの中核は、主として十八歳までに吸収される。’ (フランク・ギブニー)

>だからこそ、親が偏差値信仰の強い学校の手先になってはいけない。

わが国の親も学校も、偏差値信仰から無縁となることが望ましいですね。

>ペーパーテスト「だけ」ができるよりも、むしろペーパーテスト「でも」高いパフォーマンスを上げられるよう、親は学校教育とはまた違った目線で、子どもの個性を伸ばす教育を意識する必要があります。

具体的には、どうすればよいのですかね。

(略)


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無理な詰め込み教育の結果 2/2

2019-11-26 11:41:45 | 教育

>もう一つ提案があります。>入試制度を変えるのです。>中学入試も高校入試も、問題数が多すぎます。>これは考える力を見るための試験ではなく、暗記力を測るための試験です。>だから問題数を思い切って大問題に絞り込み、考える問題を中心に出題する。>ただし、じっくり考えなければ解けないような問題です。> 大学入試を頂点とする入試制度を、すべて思考力を問う形式に変える。

全ての考えは文章になる。文章にならないものは考えでない。
矛盾を含まない文章は全て正しい考えを表しています。ですから、正解はただ一つではない。考えの内容は、人それぞれです。だから、正解は無数にある。矛盾を含む文章も、その矛盾を取り除けば正しい考えになる。矛盾を取り除くためには、対話・議論が役に立ちます。だから、対話・議論を盛んにする必要があります。

>そうすれば、まず学校での教育が変わるはずです。>当然、受験産業のあり方も変わってくるでしょう。>教育関係者はもとより、親の意識も考えることの重要さに向くはずです。>入試改革による教育制度改革に手をつけるべきです。

教育の ‘あるべき姿’ (things as they should be) の内容はハッキリすれば、そのための制度改革も内容がはっきりしますね。我々には、行き着く先の内容の明確化が何よりも大切ですね。さもないと、手段の目的化が起こってせっかくの努力も徒労に終わることでしょう。

>■ひとりでも多く「考える力を持つ」子どもの育成を
> いずれにしても、悠長に構えている暇はありません。>残された時間は、そんなに多くはないのです。>一刻も早く思考の授業を取り入れることで、ひとりでも多く「考える力を持つ」子どもを育てなくてはいけません。

そうですね。我々日本人は、無哲学・能天気の状態ではいられませんね。’考え人’ になりましょう。
我々日本人は、日本語と英語を良く学び、時制に対する重要性を深く理解する必要がありますね。時制の使い方を覚えれば、自己の考えも思うがままに表現できます。相手の考えかたも理解できて、自己の信頼も得られます。英米人は、日本語を話す時でも、日本語特有の閉塞感に煩わされることはありません。彼らの考え方には、色々あるからです。我々も彼らに倣って日本語を使いましょう。さすれば、日本語の良さをも合わせ持つことにより ‘鬼に金棒’ の民族になることでしょう。
<日本はなぜ敗れるのか・敗因21か条> を著した山本七平の指摘する事例からも、大和民族自滅の過程は見て取れます。その一例を以下に掲げます。
私が戦った相手、アメリカ軍は、常に方法を変えてきた。あの手がだめならこれ、この手がだめならあれ、と。 、、、、、あれが日本軍なら、五十万をおくってだめなら百万を送り、百万を送ってだめなら二百万をおくる。そして極限まで来て自滅するとき「やるだけのことはやった、思い残すことはない」と言うのであろう。 、、、、、 これらの言葉の中には「あらゆる方法を探求し、可能な方法論のすべてを試みた」という意味はない。ただある一方法を一方向に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するため投じつづけた量と、それを投ずるために払った犠牲に自己満足し、それで力を出しきったとして自己を正当化しているということだけであろう。(引用終り) 

> ***


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無理な詰め込み教育の結果 1/2

2019-11-26 11:15:23 | 教育
 
>匿名希望 ( 20代 設計 ) 19/09/16 PM09 【印刷用へ】 >リンク より引用しています。 > ***
>■無理な「詰め込み教育」の結果…
>日本の教育制度は、明治維新以来、基本的に変わっていません。>教育とは教えて、暗記させること。

そうですね。以前から弟子が師匠に教えを乞うことですね。

>子どもたちの考える力を育む教育とはなっていないのです。

そうですね。’考える力’ は無理ですね。

>時代が大きく変わりつつある今、学校教育も転換すべきだと考えます。

どのように変えたらよいかが我々の問題ですね。

>日本の教育の現状には強い危機感を覚えます。

同感です。無哲学・能天気の民族でいては、一寸先が闇ですね。危険この上もない状態です。

> 今行われているのは、無理な詰め込み教育です。

そうですね。わが国の学生は、記憶装置との競争を強いられていますね。

>2002年から導入された「ゆとり教育」は、子どもたちの学力低下を招きました。>これを反省して2008年に告示された学習指導要領では、学習内容が増やされ、授業時間の10%増などが盛り込まれています。>その結果、とにかく多くの知識を詰め込むためのカリキュラムが組まれています。> 急いで量を詰め込んでも、子どもたちの頭はまったく動きません。>教えられる、すなわち受け身の状態では、頭は活性化しないのです。

そうですね。‘受け身の姿勢’ や ‘待ちの政治’ では、自己の構想は実現しませんね。

>そんな授業で、頭が柔らかくなることはあり得ません。>つまり、今の学校教育を続ける限り、子どもたちが頭を使えるようには絶対にならないのです。

そうですね。困ったものですね。

(略)
>■すべての入試制度を「思考力を問う」形式に変更すべき
>学校教育に「思考教育」を取り入れるためには、教員養成系の大学で教師を志望する学生たちにも、思考教育のやり方を学ばせる必要があります。

そうですね。現実の内容は、頭の外にある。それは、見ることができる。見れば分かる。考える必要はない。楽ちんである。
非現実 (考え) の内容は、頭の中にある。それは、見ることができない。ただの話である。その内容を了解するためには、その文章を文法に従って理解する必要がある。これは、骨の折れる仕事である。だから、通常日本人は、理解を避けて通る。
日本人は、理解の代わりに忖度 (推察) を使っている。忖度は、理解とは似て非なるものである。忖度の内容は聞き手の勝手な解釈であるから、話し手には何の責任もない。つまり、現実直視になっていない。そのことを忖度の主に話すと、’だって、私は本当にそう思ったのだから仕方がないではないか’ と言って反発する。だから、日本人は議論にならない。歌詠みになる。

>だからといって思考教育を実践するためのマニュアルなどはありません。>そんなものは不要です。> 子どもたちに寄り添って、子どもたちと一緒に考える。>決して教えず、子どもたちを励ます。

非現実 (考え) の内容は、時制 (tense) のある文章として表現することができます。時制のある文章は、それぞれに独立した非現実の三世界 (過去・現在・未来) の内容を表します。これらの非現実の世界は、個人の世界観 (world view) と呼ばれています。人生の始まりにはその内容は白紙の状態にありますが、年を取るにしたがって誰しもその白紙状態が気になってきます。それで、人は ‘考える人’ になります。自分の考えでその白紙の部分を置き換えてゆきます。その考えの内容は、哲学と呼ばれます。歴史に関する考えは、歴史哲学になります。宗教に関する考えは宗教哲学に、政治に関する考えは政治哲学になります。
科学は科学哲学、人生は人生哲学、などなど。
思春期になると言語機能が飛躍的に発達するので、英米人は英米流の高等教育機関に進学します。そこで自分の哲学を完成させて、学士・修士・博士と称号を得てゆきます。
しかるに、日本語の文法には時制というものがない。だから、日本人には哲学 (非現実に関する内容) がない。私は、日本人のインテリから、’哲学とは何ですか’ と何回も尋ねられた。彼は、日本の大学で哲学の勉強をしなかったのかもしれない。それとも、西洋の哲学者の内容を丸暗記していたのか。自己の哲学がないから、無哲学・能天気の状態でいます。
哲学が想定外となっている思考停止の人々の序列争いは、勢い暗記の競争にならざるを得ないでしょうね。そして、ここから抜け出す道は無い。


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思考支配

2019-11-25 11:14:38 | 教育

>350826 上からの教育(学校)は、国家が与える宗教と同じで、支配体制を強化するために作られた。 >山田真寛 19/11/05 PM00 【印刷用へ】
>学校は役に立たないだけでなく、特権階級が主導する支配体制(それは、古代の力による支配と地続き)を強化するための道具に過ぎないのではないか。

そうですね。わが国においては、序列秩序が支配体制になっています。

> 古代、乾燥→飢餓により私権闘争が始まり、勝者が敗者の生殺与奪を握る「支配体制」が始まった。>この時代の「支配」とはわかりやすい。>勝者のいうことを聞かねば生きていけない、支配である。

本当に分かりやすいですね。アニマルでもわかる。

>しかし、そのような状態は、抵抗も大きく勝者側にも負担が大きい。

そうですね。平和が生活の安定には必要ですね。

>それで、敗者にも私権(土地など)というアメを分け与えていくことで、戦争しないでも支配できる体制、身分序列の体制が作られた。

そうですね。下々は敗者の礼が必要ですね。

>集団秩序や規範への収束も働いているので事を分かりにくくしているが、あくまで勝者が甘い汁を吸う「体制」を強化している。

そうですね。下の者ほど割が悪いのが世の常ですからね。

>さらに、大衆からも支持を得るため次に利用されたアメが、下層階級のよりどころだった「宗教」である。>当初、国家は脅威を感じ弾圧していたが、その後国家宗教として取り込んでいる。

現人神は実物で、大衆に分かりやすいですね。

>ここでも、人々の求めるものを利用しつつ、支配者に都合のよい体制を磐石なものにいている。>(農奴に心の平安は与えるが、吸い上げる対象のまま固定。)

日本人は、序列人間です。序列の中に自己を見つければ、それで心の安定を得られます。根無し草・非国民ではいけない。

>さて、学校教育が始まる1800年頃は、市場社会も深化し、産業革命を経て科学技術も進み、それらに対する期待から、キリスト教にかわる新しい認識や世界観を人々が一層求めていた時代である。

キリスト教は、’あるべき姿’ (things as they should be) の内容を説教します。’あるべき姿’ は、’今はない姿’ (things as they are not) であります。現実のその内容は、日本人に違和感を与えます。

> 日本でも寺子屋に見られるように、江戸の市場社会が進展したのに対応して新しい認識が強く求められるていた時代である。

‘あるべき姿’ の内容や世界観は、非現実の内容であるから、無哲学・能天気の日本人には、難解なものであったでしょうね。

>そのような人々の欠乏を利用しつつ、支配体制を強化するために作られたのが、上からの教育(学校)である。

序列体制は、日本人の望むところでありました。現在でも、序列社会の外に出ると日本人は協力体制を作ることができません。移民は棄民であったようです。

>人々の期待に応えると見せつつも、実態は工業社会の歯車としてしたてることが大きな目的であった。

富国強兵の為には序列協力が必要でしたね。

>このように、武力支配→身分序列支配→宗教共認支配→学校共認支配、の流れの中で捉えると、上から教える教育(学校)というものの性格がよく分かる。

そうですね。勝負による序列→身分による序列→神々と下々により成り立つ宗教→試験成績により成り立つ序列、の流れの中でとらえると、日本人の序列メンタリティ (考え) が良く分かります。

>どの段階でも、人々の欠乏を利用しつつ、根本的なところでは、支配者の都合のいいように体制を強化するためにあったのではないか。>(現代のマスコミも同様である)。

日本人は、自己の序列の存在を知れば、それで安心します。日本人は、一人ではいられない。既成の序列の間に自己の名を差し挟むことにより安堵します。だから、個人主義がわが国では成り立ちません。

>しかも手口はどんどん巧妙になってきている。> 「支配」を古い見方から更新できず、マスコミ、学校による「支配」を見抜けないと、日本と言えども、じわじわとみんなの生活は苦しくなっていく。

そうですね。序列による不自由が見落とされていますね。

>(国全体でアメリカに貢物をさせられている。)

序列的見解によれば、アメリカは日本の ’あんにい’ (兄貴) にあたります。そう解釈して日本人は安心しています。もちろん、アメリカ人には、この解釈が通じていません。

>マスコミ、学校による思考支配からの脱却が焦点である。

そうですね。
日本語には、階称 (言葉遣い) というものがあります。’上と見るか・下と見るか’ の世俗的判断が十分でないと日常の日本語会話にも差支えが生じます。その上、日本人の礼儀作法は序列作法になっているので、世俗の上下判断ができないと礼儀正しい日本人にもなれません。序列なきところに日本人の礼儀なしです。そこで、’人を見損なってはいけない’ という想いが生じます。序列観念は高じて強迫観念の域に達していますから、日本人は、堅苦しい日常生活を送っています。’頑張って’、’ご苦労さん’とお互いに励まし合って暮らしています。



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学歴信仰

2019-11-25 02:43:24 | 教育
>日本の資本主義は、労働力の信用によって基礎付けられ、 労働力の信用は、学校制度への忠誠と信用として根拠付けられてきた。> 学校制度を支えたのは、学歴の価値に対する信仰であり、 学歴信仰を根拠付けたのが、受験制度である。

そうですね。日本人の序列信仰は、学歴という形式を通して達成されましたね。学歴を実現するためには、受験制度が欠かせません。
日本語には、階称 (言葉遣い) というものがあります。’上と見るか・下と見るか’ の世俗的判断が十分でないと日常の日本語会話にも差支えが生じます。その上、日本人の礼儀作法は序列作法になっているので、世俗の上下判断ができないと礼儀正しい日本人にもなれません。序列なきところに日本人の礼儀なし。そこで、人を見損なってはいけないという想いが生じます。序列観念は高じて、強迫観念の域に達していますから、日本人は、堅苦しい日常生活を送っています。’頑張って’、’ご苦労さん’ とお互いに励まし合って暮らしています。

>そして、受験制度が学生の価値を支配し、加えて日本人の価値観を深く支配してきた。

階称に基づく序列観念のために、日本人は序列の存在を知れば一も二も無くそれを肯定視し価値あるものと信じるように習慣づけられました。

>大学受験は落とすための試験である。

日本人の上下は勝負で決まります。分かりやすい。受験戦争は大切な勝負の機会です。手柄を立てるチャンスです。

> 誰もが大学を目指すようになると、試験を難しくして振るい落とすしかなくなる。

大学の数が足りなくなるのですね。

> 大学受験を繰り返すごとに、入試問題は奇妙に難解さを増していく。

序列争いは、激しくなるばかりですね。その価値に対する批判はありませんね。

>それに対応すべく、学校の勉強も、塾の補習も受験に照準を絞らざるを得なくなる。

そうですね。勉強も補修も受験 (序列争い) に照準を絞らざるを得ませんね。教育者にも批判精神はありませんね。

>そして、受験にしか役に立たない知識の習得が学校での役割となっていく。

序列社会における処世術の極みですね。

>かくして、家庭も学校も塾も大学受験に成功することが最大課題とばかりに収束していく。

序列社会における家庭・学校・塾の最大の関心事は受験に成功することですね。

>その結果、大学ランキング、合格率の高い高校ランキングなど序列ができてくるが、 卒業することに全く意味の無い大学は、当然のように実社会からは全く相手にされない。

序列争いの激しいところでは、大学のランキングが役に立ちます。

>全ては、受験制度という一点において、大きく狂っている。

受験制度は、人間序列を作る為にしか役立たない制度ですね。

> 受験制度によって作り出される学歴信仰も、空虚な幻想に過ぎない。

わが国は、日本語の階称に基づく序列社会で成り立っていますからね。それは幻想ではなく現実です。

> 空虚な受験制度に振り回される子ども達の悲鳴はとうに限界に達している。

それがどうした。(So what?)
日本人には、批判精神 (critical thinking) がない。
批判精神は、’あるべき姿’ (things as they should be) と ‘今ある姿’ (things as they are) の内容を比較することにより論じることが可能になります。
‘あるべき姿’ は、時制 (tense) のある文章内容として表現されます。ところが、日本語文法には時制というものがないので、あるべき姿は表現できない。つまり、あるべき姿は、日本人の想定外になっているのです。だから、日本人には、批判精神がない。’それがどうした’ の問いに答えが出ない。それで、我々日本人は ‘思慮のない人間’ であることが知られてしまう。自己主張ができない。いつも、控えめにしていなければならない。おとなしいばかりが良いわけではない。この辺で、我々日本人は、立ち上がる必要がある。
我々日本人は、日本語と英語の両言語を良く学び、時制の大切さを十分に理解しなくてはならない。英米人は日本語を話す時でも、日本語に起因する閉塞感に苦しむことはない。考え方はいくらでもあるからである。われわれも彼らに従って、考え方を増やさなくてはならない。さすれば、序列社会の難局を脱することができる。
<日本はなぜ敗れるのか・敗因21か条> を著した山本七平の指摘する事例からも、大和民族自滅の過程は見て取れる。その一例を以下に掲げます。
私が戦った相手、アメリカ軍は、常に方法を変えてきた。あの手がだめならこれ、この手がだめならあれ、と。 、、、、、あれが日本軍なら、五十万をおくってだめなら百万を送り、百万を送ってだめなら二百万をおくる。そして極限まで来て自滅するとき「やるだけのことはやった、思い残すことはない」と言うのであろう。 、、、、、 これらの言葉の中には「あらゆる方法を探求し、可能な方法論のすべてを試みた」という意味はない。ただある一方法を一方向に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するため投じつづけた量と、それを投ずるために払った犠牲に自己満足し、それで力を出しきったとして自己を正当化しているということだけであろう。(引用終り)



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