英米人は、文章で考えを表す。だから、文章を正しく理解する必要がある。間違って把握したら読んだ人の責任になる。
日本では、文章は読んだ人のものである。文章はどのように読まれても仕方がないと考えられている。
言の葉 (バラバラな単語) から発想するのは、和歌の道。
日本人の発言は、和歌・俳句の鑑賞の仕方と同じである。和歌・俳句は単語の羅列であって、文章が無い。だから、意味が無い。読者は単語から自由に (勝手に) 連想する。かくして、気分・雰囲気に左右される人間が出来上がる。文章が無ければ、酔いしれへの歯止めはかからない。
この連想法を基にして相手に議論を仕掛ける。文章を把握しないのだから、意味も把握していない。無意味な発言を即吟のように繰りだしてくる。自分では雄弁であると思い込んでいるようであるが、相手に対する説得力はない。そこに大きな勘違いがある。結果は曲学阿世か、ひ弱な花か。孤軍奮闘への道か。
もとになる文章・意味を根拠にしていないので、実ある結論は得られない。このようなわけで日本人の議論は雲をつかむようなものになる。話せばわかるのか。話してもわからないのか。
日本語文法で動作する日本語脳では、議論は不可能である。
これを見越してか、‘議論をすれば、喧嘩になります’ という人もいる。
日本人は、喧嘩するために議論をするのか、議論のためには喧嘩をしなければならないのか。
欧米人は、文章から相手の意味をつかむ。単語を拾って、自分勝手にその意味を読みとることはしない。
意味のない単語の羅列から勝手に意味を引き出すことなど不可能である。
司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調している。
「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」
司馬の言う ‘文章にして語れ’ は、’文章にして理解せよ’ という意味にもなりますね。語ることと聞くことは、 ‘言の葉の道’ の修業では無理なことかな。
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日本では、文章は読んだ人のものである。文章はどのように読まれても仕方がないと考えられている。
言の葉 (バラバラな単語) から発想するのは、和歌の道。
日本人の発言は、和歌・俳句の鑑賞の仕方と同じである。和歌・俳句は単語の羅列であって、文章が無い。だから、意味が無い。読者は単語から自由に (勝手に) 連想する。かくして、気分・雰囲気に左右される人間が出来上がる。文章が無ければ、酔いしれへの歯止めはかからない。
この連想法を基にして相手に議論を仕掛ける。文章を把握しないのだから、意味も把握していない。無意味な発言を即吟のように繰りだしてくる。自分では雄弁であると思い込んでいるようであるが、相手に対する説得力はない。そこに大きな勘違いがある。結果は曲学阿世か、ひ弱な花か。孤軍奮闘への道か。
もとになる文章・意味を根拠にしていないので、実ある結論は得られない。このようなわけで日本人の議論は雲をつかむようなものになる。話せばわかるのか。話してもわからないのか。
日本語文法で動作する日本語脳では、議論は不可能である。
これを見越してか、‘議論をすれば、喧嘩になります’ という人もいる。
日本人は、喧嘩するために議論をするのか、議論のためには喧嘩をしなければならないのか。
欧米人は、文章から相手の意味をつかむ。単語を拾って、自分勝手にその意味を読みとることはしない。
意味のない単語の羅列から勝手に意味を引き出すことなど不可能である。
司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調している。
「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」
司馬の言う ‘文章にして語れ’ は、’文章にして理解せよ’ という意味にもなりますね。語ることと聞くことは、 ‘言の葉の道’ の修業では無理なことかな。
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