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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

物の見方

2016-04-27 16:47:17 | 文化
>すなわち、哲学するとは、「物の見方を根本的に変えること」であって、「哲学塾」で私が講義を通じてできることは、せいぜいその「きっかけ」を教えることだけなのです。あとは、各人があくまでも自力で、現に(全身で)「物の見方」を変えねばなりませんが、それをどうやって実現しうるのかを教えることはできません。

現実を見れば、実学になる。非現実を見れば、哲学になる。
現実の内容は、頭の外にある。非現実の内容は、頭の中にある。
現実の内容を現実に再現すれば、それは模倣である。非現実の内容を現実に実現すれば、それは創造である。
誰も見たことのない恐竜時代の有様を文章内容で再現すれば、それは哲学博士の成果である。
その文章の内容をさらに進めて、現実に実物で再現できればなおのこと高度の創造である。

普通の文章は現実の内容を表している。
時制のある文章は、過去・現在・未来の三界に分かれる非現実の世界を表している。この内容は、哲学に成る。
日本語には、時制が無いので、日本人は、無哲学・能天気になっている。哲学博士 (Ph. D.: Doctor of Philosophy) になれないので、科学の正当な担い手とはなれない。英米の高等教育には、なかなか手が届かない言語事情がある。時制のある英語の文章内容を、時制のない日本語の文章内容に置き換えると、このように意味の文化の輸入になる。


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もやもやを表す言葉

2016-04-27 11:04:10 | 教育
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彼らはどんどん人と交わり、お金を使わず自分の手でモノをこしらえ、面白がって社会を変えようというタフさを持っている。
(中略)
 そんな若い人たちには、ものを深く考えたり、感じたりするための言葉が必要だ。人々は今、言葉を強く欲しているのに、まだ結晶化していない。それはどんな言葉だろうかとずっと考え続けている。
 一時はやった「ワンフレーズポリティクス」を、もう人々は信じないだろう。単純な断定でなく、このもやもやを表す言葉、世界の見え方が変わる言葉を探し、投げかけることが、私たち人文知にかかわる者の使命だと思っている。
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※日経新聞(2/29)・文化欄からの抜粋。

‘We can change!’ ですね。
過去・現在・未来と考察を重ねて、来るべき未来社会の内容を得ることが必要ですね。
日本語には時制がない。日本人の言葉は現実を表現するために使われている。
非現実を表す言葉は、文章にならない。非現実の内容を表すためには、時制のある文章が必要である。文章にならない単語は雑念となり、正しい考えの妨げになる。だから、雑念を脳裏から払拭しなくてはならない。そうすれば、現実に精神を集中できる。

文章にならなくて払拭された単語は、腹の底にたまる。もやもや・どろどろとした構文のないものになっている。発言はできないが、腹芸の原動力になっている。腹切りもある。
談合を開いて、お互いに腹の底を探り合う。腹を決める。理屈はない、単純な断定である。

我々には、世界観が必要である。世界観は非現実の内容であるから、文章内容にするには文法に時制が必要である。時制が無ければ、人は無哲学・能天気となり、実況放送・現状報告の内容のみを発言する現実肯定主義者となる。
非現実の内容は、個人・個人で違っている。だから、世界観比べができる。世界観が一致すれば、小異を捨てて大同につく。建設的な話し合いができ協力体制ができあがる。特亜三国 (日本・中国・韓国) の国語には時制がない。世界観が無ければ、’一盆散砂’ である。東洋風である。それで、北東アジアは不安定要因を抱えることになる。
だから、我々は、時制のある英語を勉強して、英米人の考え方を習得しなければならない。

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