>科学的なことを前提とした教育というなら、現行教育は、最初から、破綻している。
> 科学的学習姿勢の基本は、比較対照にある。
そうですね。日本人には、非現実 (考え) の内容がないから、現実の内容との比較・判定は困難ですね。
>それも、自己との延長線上で、自己と対象とを比較対照することに意味がある。
そうですね。
>歴史を例に取ると、自分の生き様と歴史上の人物との生き様とを比較してみる。>自分の生きている時代と過去とを比較して、未来を予測する。> 過去をどう見るかによって、歴史の勉強も変わってくる。
そうですね。過去をどう見るかによって、歴史書の出来栄えも変わってきますね。
>以前、読んだ本の中に未来は、不確かだ。>しかし、過去の方がより不確かだ。>なぜなら、未来は、直接確かめることができるが、過去は、直接的に確かめることができないからだというのがあった。
時制のある文章内容は、それぞれに独立した非現実の三世界 (過去・現在・未来) を表すことができます。時制のある文章が作文できない場合には、矛盾のない哲学はではなく、矛盾を含んだ ‘空想・妄想’ となります。日本語の文法には時制 (tense) というものがなく、日本人には非現実 (考え) の内容がない。お陰様で、わが国は、漫画・アニメの大国になりました。
>確かに、過去は、不確かなものだ。>それを絶対的なものとして学校で教えている。
これも、ひとえに暗記力の競争の為ですね。
>だから、歴史の授業は、丸暗記になる。 >歴史は、見る人によって全く違うものになるというのに。
そうですね。歴史に関する各人の自己実現が必要ですね。
> 歴史から何を学ぶのか。>歴史から学ぶのは、年代や人名ではない。 >歴史観であり、人生いかに生きるべきかである。
そうですね。歴史哲学ですね。
> 歴史的な出来事を学んで得るものは、十人十色、皆、違う。
そうですね。考えの内容は、人様々ですね。個性が表れますね。
>そのいずれが正しくて、間違っているかの判定はつけにくい。
そうですね。矛盾を含んでいない文章内容は、全て正しい考えを示しています。
>それでは、学校は困る。
そうですね。わが国の学校の目的は、人間序列を作ることですからね。
>そこで、歴史教育は、年代や人名を重視することになる。>しかし、それは、歴史を学ぶ目的から甚だしく逸脱している。>それは、教える側の都合であり、学ぶ側の人間にとっては、意味のないことだ。
そうですね。教える側は、正誤による判定を必要としていますね。
>こんどは、学ぶ側が、なぜ、歴史を学ぶ意義を見失ってしまう。
そうですね。意味がないからです。
>教える側も説明ができない。
そうですね。それは、処世術ですからね。上手くやるしかない。
>そこで、妥協が生じる。 >つまり、試験に受からなければ、いい学校に行けない。 >いい学校に入れなければ、いい会社に入れない。 >これは、処世の話であり、あまりに志が低い。
そうですね。しかし、序列人間は、序列の存在を確認すれば、それで満足せざるを得ませんね。何せ、彼らは、無哲学・能天気ですから。別世界の内容は、頭にありません。
>結局、学問は、妥協の産物となり、試験を受かるための手段となる。
そうですね。手段の目的化ですね。
>子供がそこから学ぶのは、妥協と処世である。
それは、渡世の知恵ですね。
>結果、子供たちは、自分の本心を隠して、世におもねり、人を欺くようになる。
そうですね。’つかみどころのない人間’ になることですね。
> いくら、ゆとり教育といったところで目的を逸脱していたら何もならない。>無意味である。
そうですね。文章内容がなければ、意味も無い。
>理念ばかりが先走り、実態がない。
非現実 (考え) の内容は、時制のある文章になる。ところが、日本語の文法には、時制というものがない。だから、日本語の脳裏には、考えの内容がない。そして、日本人は、無哲学・能天気のままで居る。
>なぜ、何のために、誰のための教育なのか。
各人に、哲学は必要である。Everyone needs a philosophy. だから、我々には高等教育が必要である。
>肝心な教育するための目的、心が見えない。>魂のない教育ほど醜悪なものはない。
そうですね。無哲学・脳天気では、目的・心が見えない。醜悪である。
.