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勝ち組教育

2019-09-25 23:45:25 | 教育

>□「勝ち組教育」にこだわる価値観
> 家庭内暴力のほとんどのケースで「親への怒り」が一因になっていることは間違いないだろう。 >親に怒りを抱かずに暴力を振るう子どもはほとんどいない。 >では、何が子どもの怒りをかき立てるのか。

それは、親が ‘勝ち組教育’ に熱心だからでしょう。

>もちろん、子どもへの暴力や暴言、無視やネグレクトもその一因なのだが、それだけではない。
>「いい学校」「いい会社」に入ることこそ幸福につながるという価値観にとらわれ、勉強を最優先させる「勝ち組教育」がかなり大きな比重を占めているという印象を私は抱いている。

そうですね。日本語には、階称 (言葉遣い) というものがある。日本語を話す時には、’上と見るか・下と見るか’ の判断は、欠かせない。その上、日本人の礼儀作法は、序列作法になっているので、’ものの上下’ を知らずして礼儀正しい日本人になることも難しい。人を見損なってはいけないという想いが重くのしかかり、強迫観念の域にまで達している。我が国民のだれがこの価値観念に囚われずにいられようか。その上、学校側が、子供の向上心をあおったりする。

> 不登校やひきこもりの若者たちの再出発を支援するNPO法人「ニュースタート事務局」代表の二神能基氏も、「『勝ち組』になるしか生きる道はない」という狭い価値観によって、子どもを追い込むような教育のあり方を問題にしており、「『勝ち組教育』がすべての根源」と主張している(『暴力は親に向かう――いま明かされる家庭内暴力の実態』)。

世俗の人間序列は、哲学 (非現実) によるものではなくて、処世術 (現実) によるものである。だから、狭い価値観になる。グローバルにも、ユニバーサルにもならない。わが国の縦社会は、’勝ち・負け’ により順位の決まる無哲学の世界である。だから、若者たちの逃げる道は無い。

>もちろん、どんな親でも「子どもを勉強のできる子にしたい」「子どもをいい学校、いい会社に入れたい」などと願う。

序列が日本人の全てである。序列を見れば、意義のあるものと思い込む。あるべき姿 (非現実) の内容がない。だから、現実に流される。非現実の考えを持たない日本人には、なす術がない。

>この手の願望の根底には、子どもの幸福を願う気持ちだけでなく、「子どもを『勝ち組』にして自慢したい」「子どもが『負け組』になったら恥ずかしい」という気持ちも往々にして潜んでいるが、ほとんどの親は自覚していない。

そうですね。無哲学・能天気な日本人には、上下・勝ち負けの世界しかありませんからね。恥があっても、罪がない。

>こういう不純な気持ちも入り交じっているので、「勝ち組教育」にこだわる親は、子どものありのままの姿をなかなか受け入れられない。>なかには、できの悪い子どもは自分の子とは思いたくない親もいる。

それでは、子供の人格を傷つけますね。日本人の道徳は、どうなっているのでしょうかね。

>こういう親の気持ちは、口に出さなくても、以心伝心で子どもに伝わるものだ。>もちろん、「なんでお前はできないんだ」と子どもに言う親もいるだろう。

序列競争が、日本人の全てですね。競走馬のようなものか。それで人生が満足できるのか。

>いずれにせよ、「勝ち組教育」にこだわる親によって子どもも洗脳され、「『勝ち組』になれなければ、だめなんだ」と思い込むようになる。

‘あるべき姿’ の無い人生は、みじめですね。
非現実の内容は、時制のある文章により表される。時制のある文章は、それぞれ独立した非現実の三世界 (過去・現在・未来) を表すことができる。それぞれの世界は、果てしなく内容の展開が可能である。だが、人生の始まりにおいては、これらの世界は皆が白紙の状態である。この白紙の状態は、誰しも気になる所である。だから、人は思春期になると ‘考える人’ になる。そして、自分自身の内容でその白紙の状態を埋めて行く。これが、各人の世界観 (world view) である。歴史に関する個人の考えは、歴史哲学となる。科学に関する個人の考えは、科学哲学になる。人生に関する個人の考えは、人生哲学になる。などなど。自己の世界観 (非現実) に基づいて現実の内容を批判すれば、その人は批判精神の持ち主になる。各人に、哲学 (考え) は必要である。Everyone needs a philosophy. 考えのない個人は、無哲学・能天気の人にとどまる。


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