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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

試験エリート 1/2  

2021-08-07 13:44:52 | 文化

 

>【エリート=詐欺師】幕末の志士亡き後、戦前の試験エリートは失策に失策を重ねた1・2  >『新糾弾掲示板』「スレッド<官僚論・東大論」より転載。

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>最初は各藩にあった藩校の優等生が推薦されて日本の高等教育機関の難関校に入学しましたが、この入学は文字通りの推薦入学で、藩校の教師や周囲から秀才と認められたものが選ばれました。 >従って最初はペーパー入学試験はありませんでした。  

 

最初の入学は人物本位でしたね。    

 

>旧制中学の第一回卒業生が出始まったころから、入学試験が始まりましたが、小学から中学を終えるまで、難関校は入学者がいなかったわけではありません。 >すでに学齢に達していた子供や青年は推薦でそれぞれの学校に入学しましたから、入学試験が始まるまで5,6年の年月が必要でした。 >この期間、中国の科挙のような試験はなかったのです。 

 

中国の科挙は国を滅ぼしましたからね。     

 

>週刊新潮にコラムを連載している帝京大の高山教授によると、遣唐使の時代から日本の政府は中国の政治制度や文化を取り入れましたが、採用しなかったものに科挙試験、宦官そして纏足の3つを挙げています。 >内閣や大臣、昔の関白、相国などの官名も中国の文献に由来します。 >しかし科挙はそれ以後の歴代政権でも採用しなかったので、科挙官僚による亡国の歴史を見ずに済んだと述べています。 

 

それは幸いでしたね。   

 

>ところが明治維新政府は高等教育学校に科挙試験のようなペーパー試験を採用してしまいました。

 

これはわが国の身分制度を打破するための政策ですね。臣民は喜びましたね。しかし、策士策に溺れるでしたね。     

 

>さて、明治維新に生きた日本の英傑を、現在の偏差値入試に当てはめて、どの程度のものかを推定するのも意義があると思います。>(中略)結論からいうと、明治維新を起こした日本人で東大に合格したものは恐らく一人もいなかったと推定されます。>なぜなら彼らは我利我利ではなく、この国家の近代化に興味があり、立身出世のために一日中机に向かうことなど考えられなかった人間達だったからです。   

 

彼らは活動家でしたね。 偏差値入試は我が国民の処世術 (損得勘定) の一環として取入れられましたね。     

 

>日本の政治腐敗や国家としての後進性は実はこの日本のエリート教育にあったと私は考えています。   

 

日本人は元来無哲学・能天気ですからね。各人に哲学は必要である。Everyone needs a philosophy.   後進性はおいそれとは治りませんね。    

 

>つまり日本の政治の腐敗の原点は創立順に陸軍士官学校、海軍兵学校そして東大なのです。>いずれも当時、超難関という教育機関の名門中の名門でした。   

 

人間序列には安逸と腐敗がつきものですね。   

 

>明治維新から日露戦争までに至る日本の近代化は、藩閥政治という腐敗を抱えながらも近代教育を受けない世代に担われてきました。  

 

日本人の近代教育はあくまでも序列再編の教育でしたね。    

 

>日本の高等教育は藩閥政治や士農工商という旧弊を克服するために意味があったかもしれませんが、継ぐべき財産を持たないけれども学業に覚えのある旧士族や有力農家の次男、三男が立身出世を目指してこの難関に挑戦したのです。 >そしてこの教育機関は入学試験や学業成績を重視し、点数の高低により人間の頭の良し悪しの順位を決めることに使われました。 >日本の知性はこの時から入学試験の点数で決定づけられるようになり、それが人物評価の絶対的尺度となったのです。 

 

そうですね。序列人間の作った人間序列の制度ですね。分かりやすいが意味がない。   

日本語には階称 (言葉遣い: hierarchy) というものがある。だから日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせない。上下判断 (序列判断) には、通常、勝負の成績が用いられる。近年では偏差値なども都合の良い資料として利用されている。わが国が学歴社会であるというのも、実は序列社会の言い換えに過ぎない。だから、わが国の学歴社会は学問の発展には何ら貢献していない。   

日本人の礼儀作法も、序列作法に基づいている。だから、序列社会の外に出たら序列なきところに礼儀なしになる。礼儀正しい日本人になる為には、世俗的な序列順位を心得ている必要がある。'人を見損なってはいけない' という想いが強迫観念の域に達していて、人々は堅ぐるしい日常生活を送っている。こうした観念は天皇制・家元制度・やくざの一家の構造にまでつながっている。

日本人は序列の存在を知れば、それが一も二も無く貴いものであると信ずる共通の序列メンタリティを有している。これは序列信仰の域に達している。日本人の尊敬は、序列社会の序列順位の単なる表現に過ぎないため、個人的精神的な意味がない。下々の衆は上々の衆の祟り (仕返し) を恐れて神妙にしている。上々が無哲学・能天気である事については、下々にとって何ら気になることではない。だから、日本人の尊敬には浅薄さが付きまとう。    

 

>日本の国家が腐敗する原点はここにありました。  

 

そうですね。日本人には意思がなくて恣意がある。    

日本人には意思 (will) がない。意思は英語の未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。

意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there's a will, there's a way. 日本人には意思がない。仕方がないので無為無策でいる。優柔不断・意志薄弱に見える。能動がなくて受動ばかりの生活を送っている。戦時中は玉砕するまで戦い抜いた日本兵であった。生きる力 (vitality) が不足している。困った時には '他力本願・神頼み' になる。

 ' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)

日本人には意思がない。だから意思決定はできない。意思決定が必要な時は、恣意決定に頼ることになる。つまり、事の次第・自然の成り行きで決着をはかる。このやり方は、アニマルも同じである。

恣意 (私意・我儘・身勝手) はバラバラな単語のままで存在するから文章にならない。だから、意味はない。行為・言動の本人には説明責任がとれない。  

日本人には、意思疎通 (相互理解) がなくて恣意疎通 (阿吽の呼吸・つうかあの仲) がある。意見の交換 (議論・対話) がなくて恣意 () の探り合い (談合) がある。意思決定 (理性判断) がなくて恣意決定 (盲目の判断) がある。だから、日本人の責任者は説明責任が取れない。未来は一寸先が闇である。危険が一杯である。お変わりのないことが何よりなことである。

日本人には意思がない。意思の無い人には責任がない。ちょうど死刑執行人のようなものである。人は死んでも彼らは殺人罪に問われない。彼らには殺意という意思がないからである。

意思の無い世界には、西洋流の責任も無い。イザヤ・ベンダサン=山本七平訳の<日本教について>の中で、日本語の責任について指摘されています。

‘、、、、、「責任」という日本語には、「応答の義務を負う=責任(レスポンシビリティ)」という意味は全くないのみならず、「私の責任だ」といえば逆に「応答の義務がなくなる」のです。、、、、’ (引用終り)

‘兎角、この世は無責任’ という事か。

自己の意思を表せば当事者・関係者になる。表さなければ傍観者にとどまる。意思表示の無い日本人は常に傍観者にとどまっていて、孤高の人になっている。孤立無援になりやすい。わが国は、世界の中にあって、世界に属していない蚊帳の外。

日本人には罪がない。意思の無い人には罪がない。意思の無い人には被害者意識はあっても、加害者意識がない。だから日本人は加害者意識が高じて体験する罪悪感に苛まれることがない。これはアニマルも同じです。だから、日本人には罪がない。罪の意識におびえる人たちが日本人に謝罪を勧めたらどうなるか。それは自虐行為の勧めと受け取られて恨みを買う事必定である。 日本人は贖罪を語らない宗教である神道・仏教の周辺に集まっている。とにかく、罪の匂いのするものは日本人の体質に合わない。だから嫌いです。それは陰気のもとになる。 

罪の意識のない人には、魂の救済も必要としない。だから、贖罪の為の宗教 (キリスト教) も、わが国では力を持つに至らなかった。

戦後の占領軍のWGIP ( War Guilt Information Program: 戦争についての罪悪感を日本人の心に植え付けるための宣伝計画) も見事に失敗しました。日本人に対する罪悪感の宣伝はカエルの面に小便の状態になったのです。 

自由とは、意思の自由の事である。だが、日本人には意思がない。そして、恣意がある。恣意の自由は何処の国でも認められていない。それは ’自由のはき違え’ となる。だから、日本人は、昔からの ’不自由を常と思えば不足なし’ のままでいる。     

 

 

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