gooブログはじめました!

日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

農家の貧困化  

2025-02-22 13:42:04 | 文化

>現代ビジネス   >農家の時給はなんと驚愕の「10円」!?森永卓郎さんが問題視していた「日本の農家の貧困化」   >森永卓郎 (経済アナリスト・獨協大学経済学部教授) によるストーリー・   >1日・   

>今年128日、経済アナリストの森永卓郎氏が死去した。   

>原発不明がんと闘いながらも、亡くなる直前までメディアに出演し続け、世界経済の行方に多くの警鐘を鳴らしてきた。   

>「AIバブルは崩壊する…」「日経平均はこれから大暴落する…」   

>彼がこう語った背景には一体何があるのか。   

>そして残された私たちは、この先行き不透明な社会をどう乗り越えていくべきなのか。   

>激動の時代を生き抜くための戦略と覚悟とは。   

>森永卓郎氏と、息子の康平氏がいまの日本のさまざまな病巣についてガチンコで語り合った魂の一冊『この国でそれでも生きていく人たちへ』より一部抜粋・再編集してお届けする。   

>『この国でそれでも生きていく人たちへ』連載第12回   

>『現代人は「大都市依存症」に陥って悪循環にハマっている!…都会の喧騒で疲れた労働者に森永卓郎が最期に伝えた「至極の金言」』より続く。   

>効率化を進めるほど赤字に   

>農業は大変だが、その分、やりがいも大きい。   

>頭を使うし、身体も動かす。   

>誰かの命令に従う必要がないので、人間的な働き方でやれるところも魅力だ。   

>実は農業を始めるまで、私は野菜があまり好きではなかったのだが、自分で作った野菜の味は格別だ。   

>スーパーで売っている野菜はあまり味がしないが、自分で作った野菜は、「大地の味」がするというか、風味が強い。   

>日本はもっと手作りの野菜を増やしたほうがよいと思うが、政府は自給自足を中心に据えようとはまったく考えていない。   

>政府が興味を持っているのは「スマート農業」、要するにAIやドローンで、デジタル化した効率的な農業を普及させたいのだ。   

>効率化と機械化によって、農業の担い手不足を解決したいわけだ。   

>ただ、機械化の費用を出すのは農家だ。   

>自動制御のトラクターは11000万円以上もするので、農家の負担ははかり知れない。   

>新しい機械を入れるために、農家は借金を重ねることになる。   

>政府が「スマート農業」を推進すればするほど、農家の借金は増えていくわけだ。   

>コメ農家の時給は「10円」!?   

>政府が補助金で負担を軽減する、という議論もあるが、政府が負担の全額を補助することは考えられない。   

>補助金をつければつけるほど、かえって農家の借金が増えていく。   

>ちなみに、民主党政権時には農家の戸別所得補償制度を導入している。   

>欧米では当たり前の制度だが、その後の自民党政権は、「補助金漬けの農家はけしからん」と主張して全廃してしまった。   

 

政府はわが国の農業を自立した産業に仕立てたいのでしょうね。   

 

>「農家は補助金漬け」というのはイメージの刷り込みであり、いまの農家は補助金なんてほとんどもらっていないので、全然儲かっていない。   

 

そうですね。農家で金持ちはいないでしょうね。     

 

>とくに悲惨なのがコメ農家だ。   

>農水省が公表する「営農類型別経営統計」によると、コロナ禍の2021年、22年のコメ農家の平均年収はたった1万円だった。   

>時給に換算するとなんと「10円」だ。   

>農家はこれほど厳しい状況に追い詰められている。   

 

そうですね。農家の長男も今はサラリーマンになっています。両親もそれを見て喜んでいます。自分達の農業が維持できないと悲しむことはない。自分達も若い時はサラリーマンを望んでいたのでしょうね。     

 

>それも結局、都会のことしかわからない政治家と官僚がすべてを決めていることが原因だ。    

 

そうですね。   

 

>『有事の際に真っ先に飢え死にするのは「都会の人々」!?…故・森永卓郎さんが「農業の軽視は命の軽視」と政府を痛烈批判したワケ』へ続く。   

 

 

 

 

 

 

 

 

 


独特な信仰心  

2025-02-21 22:25:59 | 文化

>現代ビジネス   >日本人は「無宗教」なのか意外と知らない「独特な信仰心」の正体   >松岡正剛 (仏教学者) の意見・  >14時間・   

>「わび・さび」「数寄」「歌舞伎」「まねび」そして「漫画・アニメ」。   

>日本が誇る文化について、日本人はどれほど深く理解しているでしょうか?   

>昨年逝去した「知の巨人」松岡正剛が、最期に日本人にどうしても伝えたかった「日本文化の核心」とは。   

2025年を迎えたいま、日本人必読の「日本文化論」をお届けします。   

>※本記事は松岡正剛『日本文化の核心』(講談社現代新書、2020年)から抜粋・編集したものです。   

>日本人は「創唱宗教」に無関心   

>歴史をふりかえれば、日本人が無宗教であったとか、信仰心がなかったとはとうてい言えません。   

>聖徳太子の「唯仏是真」宣言や東大寺の大仏開眼このかた、日本人は仏教や仏像を愛し、読経に親しみ、その一方で伊勢や出雲や各地の鎮守の八幡さんをはじめとする神祇神道にも親しみ、さらには数々の民間信仰にも関心を寄せてきたのです。

>つまりもともと神仏習合的だったのです。   

>中世には熊野信仰が流行しました。   

>近世には富士信仰が流行しました。   

>こういったことはずうっと続いているのです。   

>だから日本人が無宗教だとか無信仰だとかとは、とうてい言えません。   

 

これらは自然崇拝でしょうね。形式 (儀式) があって内容 (教義) が無い。      

 

>それなのにあいまいで、自分自身の宗教性は語らない。   

 

そうですね。   

 

>信仰力を大事なものと見ない傾向がある。   

>どうしてなのでしょうか。   

>阿満利麿は話題になった『日本人はなぜ無宗教なのか』(ちくま新書)という本のなかで、日本人は「創唱宗教」にもとづく信仰には全般的に無関心なのであって、それをもって必ずしも信仰心がないとは言えないだろうと書きました。   

>創唱宗教というのは教祖・教義・教団がはっきりしている宗教のことです。   

>そういう創唱宗教を各自がもっているわけではないが、みんながそれぞれ勝手な信仰心をそれなりに発揮してきたというのです。

 

それは自然崇拝だからでしょうね。   

 

>日本の信仰は「シンクレティズム」   

>つまり日本人は宗教を拒否しているわけでも、否定しているわけでもなく、そのつど「信仰の向き」を選択しているのではないかというのです。   

 

日本人には世界観がない。だから地獄・極楽の教えもない。      

 

>欧米の宗教学者たちは、こうした日本人の信仰は「シンクレティズム」(混淆的信仰観)だと言います。   

>まあ、当たらずとも遠からずです。

>ただし、日本のシンクレティズムは宗教だけにはかぎりません。   

>いろいろな場面で混淆的です。(混淆:こんこう、入り混じること)    

 

日本人には考え・哲学がない。だから話に筋がない。だから話が入り混じる。      

たとえば、生まれた時には宮参り、結婚式はキリスト教会、葬儀の時は仏式のご厄介になる。といったようなものである。内容が無いからそれだけ余計に形式には力が入る。だから、改革運動は難しい。内容を考える欧米人には日本人が不可解な民族に映る。

 

>リミックスが得意なのです。   

>このことはまた話します。

>ともかくも、たしかに親鸞や座禅や初詣が好きなのは、その依ってきたる浄土真宗の教義や禅の清規や初詣をした神社の御祭神のせいではなくて、おそらくはたんに「ありがたい気分」がするだけからかもしれません。   

 

そうですね。   

なにごとのおはしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる  (西行)    

 

>その一方で、たくさんの人々が伝統宗教や八十八ヵ所巡りや新宗教にかかわって、今日も仏前にロウソクを灯し、神棚の水をとりかえているのも事実なのです。   

>というようなことで、私たち日本人にとって神道と仏教は実はわかるようでいて、なかなかわからないものの代表のようです。   

 

そうですね。神道は自然崇拝で、仏教はインド哲学由来の内容ですけれどもね。      

 

>それでも、日本の神と仏はずうっと習合しようとしつづけた、と言うべきです。    

 

そうですね。無理が通れば通が引っ込む。When might is master, justice is servant.   

 

>神と仏を分離しようとしたのは、明治政府が神仏分離令を発布して行われた廃仏毀釈のときだけです。   

>この痛手はのちに影響をのこしたものの、大きくは今日にいたるまであいかわらず神仏習合が主流になってきたのです。   

 

そうですね。   

 

()    

 

 

 

 

 

 

 

 

 


後藤健夫氏  

2025-02-21 21:00:46 | 文化

>東洋経済オンライン   >大学全入化時代「Fラン大学」論争の本質を問う 大学は万人に開かれた「ユニバーサル段階」に   >後藤健夫の意見・   >3時間・   

>このまま出生数が減り続けると、大学進学率が100%になったところで、数年後には出生数が現状の全体の大学入学定員(約63万人)を下回ってしまう。   

>それほどに出生数の減少は激しく、大学全体では入学定員を減らさなくてはならないのだ。   

>まず、7年前に文部科学省が出したグランドデザイン(「2040年に向けた高等教育のグランドデザイン(201811月答申)」)の見直しが求められるだろう。   

>さらにAI(人工知能)の進化は目を見張るほどだ。   

AIが人間の能力を超えるシンギュラリティは2045年に到来すると言われたが、どんどん前倒しされそうだ。   

AIがいつまでにどのように進化するのかはまったく予想がつかない。   

>それほどに進化のスピードが速く、今後の予測が困難な時代にある。   

>ユニバーサル段階にある日本の大学   

>さて、日本の大学はいま「ユニバーサル段階」にあると言われている。   

1973年にアメリカの教育社会学者であるマーチン・トロウが論文で発表した高等教育機関の在り方を示す概念によるもので、文部科学省の議論などでもよく示されるものだ。   

>この論文では高等教育の在り方を就学率によって3段階に区分けしている。   

>その1つが「ユニバーサル段階」である。   

>エリート段階(就学率15%未満)、マス段階(就学率50%未満)、ユニバーサル段階(就学率50%以上)といった段階を経て、高等教育は量的な拡大をして、その教育の目的や内容が質的に変容していく。   

>就学率を進学率に読み替えて議論されることが多いが、大学進学率(短期大学を含む)は50%を超えて久しくなった。   

2024年度の大学進学率(短大含む)は62.3%であり、大学(学部)進学率は59.1%、短大進学率は3.2%である。   

>一方で、大学入学定員と大学入学者の関係を考えると、2024年度を見ると、募集定員を大学入学者が1万人以上下回る状態にあり、いわゆる「全入化」状態にある。   

>大学入学者は学習目的も学力層も多様化している。   

>まさに大学は万人に開かれたユニバーサル段階にある。   

>ユニバーサル段階であれば、学生が多様化するがゆえに教育の方法も多様化する。   

>大学の入学者選抜ももちろん多様化するのである。   

>残念ながら世間一般においてはこうした現状認識はなく、いまだに大学に「エリート」を求めたり、入試で「学力重視」が当然だとしたりするものが散見される。   

 

そうですね。人間序列は序列社会の弊害ですね。   

 

>問題は、ユニバーサル段階にあるにも関わらず、いまだに多くの大学が大教室での講義が中心であり、入学者の多様化に応じた教育に変容していないところがあることに、課題があるのではないだろうか。

 

そうですね。大学では多様な意見を述べるべきですね。      

 

>もちろん、いち早く「少人数化」「アドバイザー制度導入」などを進める大学もある。   

>こうした状況だから、数多ある日本の大学を「大学」とひとくくりにする時代ではないことと向き合う必要がある。   

>大学入試が「大学教育にふさわしい準備」ができているかを求めるものである。   

>大学をひとくくりにできないのだから、当然、大学入試もひとくくりにはできない。   

>だから、大学入試難易度ランクに「BF(ボーダーフリー)」があるのは当然なのである。   

>全入化して一般選抜で倍率が出なくなり、合否のボーダーラインが引けなくなると「BF」に位置づけられる。   

>それはボーダーラインを予測する大学入試難易度ランキングからは実質的に除外されることを意味する。   

>つまり、ランキング競争から落ちこぼれることを意味する。   

>そうした大学を世間は「Fラン大学」と揶揄する。   

>しかし、そうした大学が登場することは必然なのだから揶揄しても仕方なく、若者の教育や生涯学習を考えたときに、この状況を受け入れるべきだ。   

>なにしろ日本の大学は万人に開かれたユニバーサル段階にあるのだから。   

>「ディプロマ・ポリシー」の重要性   

>さて、総合型選抜などで求められる「志望理由書」を書くにあたり、大学が示す「アドミッション・ポリシー」(入学者受け入れ方針)をよく読むように指導してそれに沿った理由を書くように生徒に求める高校や塾があるようだが、実は、それだけでは自分に合った大学に進学できるわけではない。    

>大学はいまアドミッション・ポリシーを含めた3つのポリシーを策定・公表することを義務づけられている。   

>「ディプロマ・ポリシー」(卒業認定・学位授与方針)と「カリキュラム・ポリシー」(教育課程編成・実施方針)、「アドミッション・ポリシー」の3つである。   

>これらも多様化する大学が自らの個性、特性を示すにあたって重要なものであるが、ディプロマ・ポリシーは「教育目標」、カリキュラム・ポリシーは「教育方法」、アドミッション・ポリシーは「学習準備要件」と読み替えることができるだろう。   

>受験生から見れば、この大学では「なにができるようになるか、どのように学べるか、そのためにはどのような準備が必要なのか」であるのだから、アドミッション・ポリシーだけを見ていても志望理由書をうまく書けないのではないか。  

>大学をひとくくりに語ることができず、多様化する中で、大学の教育目標から教育方法を見ておくことは重要であるのだ。   

>特にこれから入学者選抜の機能が緩くなり、不合格になる確率が低くなる時代には、この大学で「なにができるようになるのか」は最重要になるのではないか。   

>そして、大学側の教育に臨む姿勢を最も表しているのがディプロマ・ポリシーであることは言うまでもないことだ。   

>大学「全入化」の時代に、アドミッション・ポリシーは選抜基準を示すものから受験生に入学するにあたっての準備が整っているかを求めるものへと重点を変える必要があるだろう。   

>近い将来には、選抜試験が有効に働く大学は全体の2割程度ではないだろうか。   

>それが「全入化」である。   

>大学入試で何を問うべきか   

>大学は、冒頭で触れたように、少子化とAIの進化にともない予測不可能な時代にあり、さらには学生の目的や学力の多様化にともなう対応を求められている。    

>特に地方の大学はこれらが重くのしかかる。   

>そうしたときに大学入試でなにを問うべきなのか。   

>これまでのように難度の高い大学と同じようなことを易しく問えば良いわけではない。   

>「大学教育にふさわしい準備とはなにか」。   

>大学教育の有り様によって多様化することは間違いない。    

>生成AIとうまく付き合えることも大学教育をうまく享受するための「能力」なのだろう。   

>求めるものは「学ぶ意欲」なのか。   

>ではそれをどのように測るのか。   

>そもそも大学が求める「知的能力」とはなんなのか。   

>文科省の中央教育審議会大学分科会では、高等教育の在り方を議論しているが資料に「知の総和(数×能力)」とある。   

>こうした概念を示す段階で議論の解像度の低さが心配になる。   

>「知の総和」とは人の「数」を確保して、より高い水準の教育により「能力」を高めることで総和を上げていこうといったことを示しているようだが、この「数(人)」とは誰なのか。   

>生産力のある人なのか。   

>日本の生産年齢人口の割合はOECD加盟国の中で群を抜いて低い。   

>それを上げるためには出生数を増やさないといけないし、上がるまでには15年以上の時間がかかる。   

>移民受け入れの議論もまだまだ十分ではない。   

 

子供のいる家族を移民として認めれば若者の人数は上がりますね。日本人の議論の能率化も必要ですね。      

何事も成らぬは人の為さぬなりけりですね。   

 

>「数」が増えないとなると「能力」を上げなければ「知の総和」は維持できない。    

>果たしてこの能力とはなになのか。   

>そもそも能力はアカウンタブルなものではないからかけ算には使えないことは小学生でも知っていることだが。   

>能力の定義もできていないだろう。   

>そもそも能力をアカウンタブルなもので示せるのであれば教育の議論はとても楽になる。   

>それがいまだできないのだから困っているのだ。    

>未来を創るのは教育を受けた若者   

AIが進化する中で「より高い水準の教育」とはなにを意味するのか。   

OECDPISA調査(学習到達度調査)からわかるように日本の教育の「平均値」は高い。   

>この平均値を上げようとしているのか、特定の人材の能力を上げようとしているのか、特定人材だとしたらその能力はどこまで高めたら良いかを示すことはできるのだろうか。   

>世の中は優秀な人材だけで構成されているわけではない。   

>この議論はユニバーサル段階にある大学教育をどこに着地させようとしているのか。    

>教育は社会の中にあり、社会の影響を強く受ける。   

>予測不可能な社会を前に、教育の未来予測はかなり困難である。    

>しかし、社会が変わろうとしても、選抜機能が緩くなっても、大学で主体的に学ぶ姿勢を求められることに変わりはないだろう。   

 

そうですね。大学が頼まれ仕事をする人たちばかりでは成り立ちませんね。      

 

>未来を創るのは教育を受けた若者である。   

>このことをいま一度確認したい。   

 

我が国の日本人の記事は実況放送・現状報告の内容ばかりで、読者のためになる所が少ない。‘それでどうした、それがどうした’の問いに答を出せる編集者が必要である。我々は自己の見解を述べる教育を受けてこなかった。高等教育機関において自己の個人的見解示せば学位 (博士号など) が得られる。だが、自己の見解を含まない発言には価値が少ない。我が国には社会の木鐸 (ぼくたく世の人を教え導く人) が必要である。そうでなければわが国は迷走に迷走を続けて、いつまでたっても国家目標に到達しない。だから、わが国の政治家は若者にも夢と希望を与えない。    

 

 

 

 

 

 

 


東京の大学へ  

2025-02-21 02:16:42 | 文化

>マネーポスト   >地方出身者の「Fランでもいいから東京の大学へ」の痛切な思い 「田舎には何もない、とにかく都会に」「時代錯誤な文化が嫌で」「閉塞的な人間関係をリセットしたかった」   >マネーポストWEBによるストーリー・   >8時間・   

> 大学全入時代――。   

文科省令和6年度学校基本調査によると、大学進学率は過去最高の59.1%。   

>なかでも東京の大学は人気で、内閣府によれば、大学進学時における都道府県別の流出入者数は東京都が圧倒的に多く、2024年で約7.8万人の純流入となっている。   

> 地方には大学や学部の選択肢が少ないという背景もあるが、「どの大学でもいいから、とにかく東京に行きたかった」という地方出身者は案外多い。   

 

そうですね。   

 

>「Fランでもいいから、地方を脱出したかった」と明かす人たちの本音に迫った。   

>東京での生活は海外留学に匹敵   

> 青森県から都内のT大学に進学したAさん(20代男性)は、現在3年生。   

>生まれ育った街には同級生が少なく、若者が多く集まる東京に憧れた。   

>また、「経験できるものごとの選択肢が田舎は少ない」と話す。   

>「実家から離れる大義名分としては、大学進学が一番いい。   

 

そうですね。ひと昔前は集団就職でしたね。   

 

>地元はド田舎で、遊ぶところなんてなくて、娯楽は家でゲームをするくらいでした……。   

> 学校帰りに好きな場所へ行けて、適当にふらふらしていても街には遊ぶところがあるような都会と比べたら、僕が住んでいたところはあぜ道と小川が流れているだけで、何も楽しいところはありません。   

>高校の修学旅行で大阪に行ったときに、初めて一人で電車に乗ったことは今でも鮮明に覚えています。   

>数分おきに電車が来て感動すると同時に、今田舎を出ないと、今後新しい体験はできないと思うようになりました。   

> 東京に進学した感覚は、同じ日本でも海外留学とも思えるほど文化が違い、実家から出て良かったと思いました。   

>大学生活の4年間くらい楽しく生活がしたかったんです」(Aさん)   

>田舎特有の「時代錯誤」な文化が嫌だった   

> 秋田県出身のBさん(20代男性)が都内のS大学へ進学したのは、「田舎の風習、悪く言えば時代錯誤な文化が嫌だった」というのが理由だという。   

>「『長男なら家を継ぐよね』とか、『男なら早く働いて自立しろ』といった田舎特有の慣習が嫌でした。   

>なので、大学進学のタイミングで東京へ出る、実家を出ることにしました。   

> 秋田では、家から一番近い高校でも親の車に乗って30分の距離を通学です。   

>塾なんてありませんから、受験勉強をするにしても、何から始めたらいいのかもわからないし、友達もほとんど進学を選ばないので相談もできません。   

>全て一人で調べる必要がありました」   

> 情報が少ないからこそ、時代錯誤な文化もなかなか変わらない、とBさんは言う。   

>「自分がどれだけ勉強を頑張っても、首都圏や進学校にいる生徒とは絶対的な環境の差がある。   

>なんだかんだいっても、首都圏にいる人だと、進学にしても就職にしても情報がすぐに手に入るうえ、オープンキャンパスだって電車で簡単に行けます。   

>田舎だと新幹線や飛行機に乗って、やっと大学を見に行けるので、物理的な距離も相当不利ですよね」   

> 第一志望のW大学は落ちたが、なんとかS大学に滑り込んだBさん。   

>「偏差値はちょっと低いですが、一度都内に出てしまえばこっちのもの」だという。   

>「偏差値が低いとしても、古い風習から逃げられるなら全然問題ありません」(Bさん)   

>勉強したくて大学に行くわけでないのだからFランでもいい   

> 鹿児島県出身で、現在都内のT大学2年生の女子学生Cさんは、兄と姉がいる3人兄妹。   

>「実家だとすべて男子が偉いという感じ。   

>お父さんだけおかずが多いとかも当たり前だし、兄だけ優遇されていた」と家を飛び出した。   

>「『女は黙って家事をしろ』みたいな男尊女卑の風潮が嫌すぎて、高校まで基本的に学校から帰ったら部屋に引きこもっていました。   

>それを打破するには大学進学のタイミングしかないと思って、東京に行くと決意。   

>地元がいちばんいいと信じている親からは、猛反対にあいましたね。   

>偏差値のすごい大学ならともかく、『お前の頭だったら地元から通えるところにしろ』とまで言われました」(Cさん)   

> Cさんが幸運だったのは、すでに社会人の姉が千葉に住んでいたことだ。   

>「姉が千葉にいたので、私も東京に出たいと主張しやすかったし、姉も味方してくれました。   

>大学はもう都内ならどこでもよかったです。   

>正直Fランですが、勉強したくて大学に行く人は別として、そうでないならどこに行っても同じ。   

>なら、東京でたくさんの刺激に触れたほうが自分の将来のためになる気がします。   

 

そうですね。   

 

> おしゃれな服もすぐに買えるし、カフェもバイト先もいっぱいある。   

>東京では男性が優しくて感動します。   

>姉は『ひっかからないようにね』って心配していますが(笑)」(Cさん)   

>志望校には落ちたが大学生活は楽しかった   

> 岐阜県出身のDさん(20代男性)も田舎の閉塞的な環境が嫌になったことを明かすが、その理由は「人間関係」だという。   

>「閉じた人間関係をリセットしたい」がために進学を選んだ。   

>親からは「絶対に後悔する」、「県内で進学しなさい」などと言われたが、それを振り切って都内へ出た時のことを振り返る。   

>「外に出るだけで噂されて、『土曜日○○に行ってたよね』なんて言われる日々に疲れました。   

>同級生が高校の先輩と付き合って妊娠したらしいなんて話がすぐに耳に入ってくるし、『○○君がどこで働き始めた』なんて興味もありません。   

>田舎の高校生だと、身近で普通の話題なんですが、自由さがないことを常々感じていました。   

>こんな閉塞的な人間関係は一度リセットしたいし、それを正当化するなら大学進学が親を説得させやすかったんです」(Dさん)   

 

若者には開けた人間関係が必要ですね。自分の適性を試すことができる。未来の無い若者ほど悲惨なものはない。一生後悔する。         

 

> 親からは反対されたが、それでも説得を続けた。   

>「『家賃も高いし誰が金を払うんだ』なんて言われたので、奨学金を借りて全部自分で払うと伝え、絶対に出ていくことは諦めませんでした。   

>志望校には落ちて、偏差値的には正直大した大学には入れませんでしたが、それでも楽しい大学生活を送れたと思っています。   

>大学を卒業した後も都内で働いていますが、今は手取り23万円で、言われているほど生活は苦しくありません。   

> 田舎の人は東京の生活は大変だと必ずいいますが、就職先の選択肢が少ないし、賃金も安い田舎のほうが僕にとっては大変。   

 

そうですね。自分の人生の進路が決まるまでは都会が良いですね。その選択肢は多いほど良い。自分が選んだ道なら苦労が苦労とならない。         

 

>実家周辺の暮らしだと手取り14万円くらいの働き口しかありませんからね」(Dさん)   

> 地方特有の悩みがある限り、東京を目指す若者がいなくなることはないのかもしれない。   

 

田舎に議事堂を作ったらよい。そしたら一極集中が二極集中になる。それだけでも違う。学問の中心も田舎に作ったらよい。三極も四極も作ったら良い。   

政治家はわが国の未来の大きな構想を考えるべきである。小さなことにばかりに拘って暮らす。そして全力を尽くせ。         

 

 

 

 

 

 

 

 


阿古智子氏

2025-02-20 17:42:13 | 文化

>産経新聞   >阿古智子氏「自由守られている日本が中国人の重要拠点」知識人支援など強調 神戸「正論」   >20時間   

>神戸「正論」懇話会の第26回講演会が19日、神戸市中央区の神戸ポートピアホテルで開かれ、東京大教授の阿古智子氏が「中国で何が起きているのか-大規模な言論統制と日本の取るべき姿勢」と題して講演した。   

>阿古氏は現在の中国について、習近平国家主席のもと、恣意的(しいてき)な汚職の取り締まりや学校現場で少数民族の言語を使った教育が認められないなど、政権維持のため、「言論を統制し、問題点を指摘されないようにしている」と分析した。   

>また阿古氏は、統制により、国内での活動が制限された中国人歌手が日本で公演を行った事例を紹介。

>「自由が守られている日本が中国の人たちにとって重要な拠点になっている」と述べ、中国の問題を分析して母国に前向きな影響を与えることができる中国の知識人への支援の重要性などを強調した。   

 

そうですね。しかし、中国人にも色々いますからね。最大の注意が必要ですね。          

中国人はわが国の国家安全保障上の危険があります。中国人には、有事に軍事動員する「国防動員法」と、有事・平時を問わず中国政府の情報工作活動への協力を義務づける「国家情報法」があるのです。

これらの法律は、中国国内はもちろん海外在住の中国人をも対象としています。

日本国内にいる中国人は日本にいても自由が守られていません。日本で反中国政府活動をすれば、中国の公安から電話がかかって来て両親が心配しています。早く帰国しなさい‘と脅しをかけられます。

彼らの中には愛国者もいれば、密告者もいる。彼らはわが国有事の際にどのような役割を果たすことになるのでしょうかね。わが国を台無しにするトロイの木馬のようなものになるのか。

我が国民は常に国家安全保障の見地から政治を見直す必要がありますね。     

 

中国は中原 (ちゅうげん) に鹿を逐 () う伝統的な覇者の国である。だから、覇者の物語 '三国志' は、中国人の愛読書となっている。覇者は周辺諸国に覇権を打ち立てようとして傍若無人のふるまいをし、多大な迷惑をかけている。これは皇帝の時代も国家主席の時代も漢民族のメンタリティが同じであるから変わらない。漢民族は、自分たちの考えを示すために漢字を作った。しかし、彼らは外国人の考えを示すための漢字は作らなかった。だから、外国人に対して自己の内容を発信はできるが、外国人からの内容を受信することは難しい。独断専行に陥りやすい。印欧語族のインド哲学を経文 (漢文) に表すことが至難の業であることがわかる。経文など漢文の書物をいくら読んでも外国人の考えは出てこない。だから、中華思想を堅持し自己中心的にならざるを得ない。周辺諸国を中国化することに専心してやまない。中国人が外国人の影響を受けて発想の転換 (paradigm shift) をすることは期待薄である。

・・・・・

中華 (ちゅうか)  [外国との交渉が少なかった時代に] 自国を、世界の中心にある、一番優れた国とみなしたこと。[狭義では、漢民族のそれを指し、またその呼称としても用いられる]    東夷 (とうい)  [東方の野蛮人の意] 昔、中国から見た東方諸国の称。[広義では朝鮮・沖縄を含み、狭義では日本を指した]     南蛮 (なんばん)  [南方の野蛮人の意] 昔、中国で、インドシナなど南海地方の諸民族の称。 西戎 (せいじゅう)  [西方の野蛮人の意] 昔、中国で、チベット族やトルコ族など西方の異民族の称。北狄 (ほくてき)  [北方の野蛮人の意] 昔、中国で、匈奴 (きょうど)・韃靼 (だったん) などの遊牧民族の称。